【金曜エッセイ】どうしても思い出せない “あの人” の名前
文筆家 大平一枝
幼いふたりの子育てをしていたころ、非常にお世話になった人がいる。その人には毎晩助けてもらった。その人の名を出すだけで、布団の私を挟んで両脇にいる娘と息子がくすくすと笑い出す。ドリフでいったら、登場するだけで会場のあちこちから子どもの笑いがおこる志村けんさんのような鉄板的存在。
そしてその人の名が出ると、さあ絵本もお話もこれでおしまい、お休みの時間だよの暗黙の合図で、心が眠りの準備に向かう。
便利で頼れる子育ての相棒だ。
にもかかわらず、どうしてもその名を一文字も思い出せない。子どもに聞いてもわからないと口をそろえる。息子は冷たく、そんな話あったっけとまで。
正確には、「人」ではない。私が作った話の主人公で、魔法使いの見習いである。
仮にそう、サンペクチュアリーとでもしよう。サン・デグジュベリのもじりだが、本当はもっととぼけて愛嬌のあるオリジナルの名前だったように思う。
サンペクチュアリーはいつも、私が疲れ果てた頃に登場する。夫は仕事で遅い。私は仕事から帰宅後、大急ぎで2歳と6歳を風呂に入れ、夕食を作って食べさせ、その合間に洗濯機を回し、布団を敷いて寝かしつけに入る。絵本をたくさん読めば少しは国語のできる子になるといたずらに信じこんでいたので、毎晩数冊修行のように読んだ(ふたりとも、その後たいして国語はできなかった)。3人川の字で寝ながら、両手で絵本を頭上にかざして読んでいると、あろうことか最初に眠くなるのは私なのである。
子どもたちはわくわくしながら絵本を覗き込み、もっと読んでもっともっととせがむ。絵本を持つ手はだるいし、まぶたも重い。
5冊目を読み終えパタリと閉じ、「じゃあおやすみ」といってもなかなか寝ない。ママ、読むの疲れちゃったからと言っても黙ってはくれない。
「じゃあ、お話して!」
だいたいこんな流れで、サンペクチュアリーが登場する。
しかし、じつは創作話というのも意外にしんどい。話にオチを作らなければならないし、ストーリーの組み立ても必要。なにしろ眠いので、脳は使いたくない。
だから、サンペクチュアリーの話の流れはいつも同じである。
魔法使いのお母さんに料理を頼まれて、不器用で未熟な魔法使いの見習いサンペクチュアリーは、「味噌汁にスイカを入れて煮込み、最後に粉チーズをふりかけた」とか、「コロッケにチョコレートソースとジャムを塗って、にぎりこぶしみたいな大きなマシュマロふたつで挟んで食べた」とか、ありえない食材の組み合わせの料理を作る。失敗してお母さんに怒られて、「今日も魔法使いは落第です」で終わり。
オチは必ずこれで、内容もただひたすら、思いつきの素っ頓狂な食材で料理を作るのみ。
なのにふたりは毎回初めて聞くように、ゲラゲラ笑う。「味噌汁に」というと、さあ次は何が来るかと、わくわく顔で待っている。「スイカと」「きゃあーっ」「粉チーズを」「ひーっ」、「ぐちゃぐちゃに混ぜ」などと言おうものなら、のたうち回って笑う。ちゃんと想像しているんだろうな、だからあれだけ毎回新鮮に大笑いできるんだな、子どもって純粋だなと思う。
それに偉大な志村けんさんの笑いのように、子どもは繰り返しが大好きだ。
大笑いして、電気を消して、「はい、今日はここでほんとにほんとのお・し・ま・い」。
私も目を閉じるふりをすると(本当に寝てしまうこともよくある)しばらくして小さな寝息がふたつ聞こえてくる。
あんなにお世話になったのに、誰も名前を思い出せないなんてサンペクチュアリーが不憫である。
でも確かに楽しかった、ゲラゲラ3人で笑いあった温かな記憶だけが胸に残っている。息子は記憶さえないらしいが、それでもいい。あの布団でのささやかなひとときが、私の胸にはこれから先もきっと張り付いて消えないだろう。だからいい。
子育てとはそういうものかもしれないなと思う。具体的なあれこれは忘れても、笑いあった時間だけは消えずに刻まれる。ヘロヘロに疲れた一日の終り、苺のケチャップがけにきゃあきゃあ転げ回った子どもたちの歓声は、今も私のエネルギーになっている。
必ず笑顔で眠れるというサンペクチュアリーがかけた一日の終りの魔法。
やっぱり名前を思い出したいものだなあ。
きっと今ごろ見習いから魔法使いのプロに昇格しているんだろうな。
長野県生まれ。編集プロダクションを経て1995年独立。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』(誠文堂新光社)、『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)ほか。『東京の台所』(朝日新聞デジタル&w),『そこに定食屋があるかぎり。』(ケイクス)連載中。一男(24歳)一女(20歳)の母。
大平さんのHP「暮らしの柄」
https://kurashi-no-gara.com
photo:安部まゆみ
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