【スタッフコラム】毎年忘れて、出会いなおす季節の不思議。
最近、「あー、これ梅雨っぽいなあ」と感じるシーンを採取するのに凝っています。
いまのところの収穫ですと、色んなものが湿った匂い、曇ったままの空、につられてまぶたも重くなる昼すぎの仕事のはかどり。あと、窓ごしに雨粒の低い音を聞きながら眠る夜の心地よさ、そして部屋干し続きのいやーな感じ、などなど。
そうして集めていて「おもしろいな〜」と思うのが、これらの感じを、いざ出会うまで、いい具合に身体が忘れてしまっていること。
毎年のように、もう何十年も経験している梅雨ですが、いざ梅雨シーズンにならない限り、このジメッぽさも曇天も結構忘れてしまっているのですよね。忘れているからこそ、「あ、日本の梅雨ってこれだった」とひとつひとつ出会いなおして、採取できるのですが。
でも、なんとも懐かしいような、新鮮味を感じるような、相反するこの感覚はなんというのだろうと不思議なんです。
思えば、春の桜も、秋風も、もう何十年も繰り返して経験しているのに、なんでこう毎年のように感動できるのでしょうか。
そんなことを思ったきっかけが、アラスカの大地で写真を撮り続けた写真家・星野道夫(ほしの みちお)さんのエッセイ『旅をする木』(文藝春秋)の言葉でした。
“人間の気持ちとはおかしいものですね。どうしようもなく些細な日常に左右されている一方で、風の感触や初夏の気配で、こんなにも豊かになれるのですから。人のこころは深くて、そして不思議なほど浅いのだと思います。きっと、その浅さで、人は生きて行けるのでしょう”
季節のうつろいを前に「美しい」と思うこころは「深い」。でも、その感動も、過ぎてしまえば忘れてしまうことは「浅い」のかもしれない。一見相反する「深くて、浅い」というものがあるから、桜も、梅雨も、なかば初めての経験のように毎年「感動しなおせる」ということなのでしょうか。
そしてまた、星野さんの言葉が教えてくれたのは、たとえば桜をみて「美しい」と感じる純粋さと、日々の些細なことで凹んでしまうもろさは表裏一体なのだということ。
季節の感動するこころを持つということは、同時に、他人や自分の些細な言動にも左右される。
ともすると、日常生活では圧倒的に後者によって凹む機会の方が私は多いです。昨日も、梅雨のジメッぽさに憂鬱としてしまいましたし。
それでも、この先も毎年、桜も、梅雨の雨で世界の全部が濡れる光景も、感動しなおせるなら。それとひきかえになら、日々の出来事に一喜一憂するもろい自分も、まあしかたないかなと思えそうだなあ。
そんな感じで、どうかな? だから梅雨のジメジメに一喜一憂しても、そんなこころ持ちでいいじゃないかと考えてみたら? と、このように強引に導き出した支離滅裂な結論を自分に言い聞かせています。
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