【金曜エッセイ】母になったあの人と、私。

文筆家 大平一枝

 日曜日に編集者と、知り合いの料理家のイベントに行った。せっかくだからその前に映画を観ることになった。午前11時に渋谷のミニシアターで待ち合わせ。今ほど暑くなく、よく晴れた空とからっとした空気がラムネみたいに気持ちのいい日だった。
 小学2年の子がいる彼女と、子育てが一段落している私。ならばふだん子連れでは観られない作品をと、カンヌグランプリのイラン映画を。
 いたく感動し、感想を喋り続けながら渋谷駅に向かう。イベント会場は青山だ。
「誰かと映画を観て、感想を話しながら歩くのって久しぶりだよね」
「ああたしかに。コロナ禍で映画館すら行けないし、行ってもひとりでしたもんね」

 表参道の地下鉄から地上に上がり、スマホの地図を頼りに歩く。洗練されたハイブランドのビルが点在する南青山の静かな通りを進む。大昔、打ち上げで訪れたバーや見慣れぬ洒落たカフェの横を通る。一軒家の花屋、焼き菓子店。懐かしさと新鮮さが混じり、互いに「あー」とも「おー」ともつかない感嘆の声が漏れる。

 と、彼女がつぶやいた。
「もうずいぶん、青山をこんなにゆっくり歩いてないな……。お母さんになると、自分のために歩いていない道がたくさんできます」

 そう、ここは“自分のために歩く道”。洋服や靴やコスメの買い物、仕事のロケハンを兼ねて歩きながら店名をメモをしたり、試しに入ってお茶してみたり。デザイナーの事務所が多いエリアなので、打ち合わせで小走りに通り抜けることも。それらは全部、自分の用事のためだったが、幼い人とは歩かない。
 公園やスーパーや、幼い人が喜ぶ本やおもちゃを買いに行くための別の道が毎日の活動エリアになる。独身時代、あんなにあたりまえのように歩いた道と突然疎遠になる。

 どちらがいい悪いではない。どちらも自分のかけがえのない道だ。彼女は今、子育てに仕事に綱渡りのような日々を送っているのであろうと痛いほど伝わってきた。私も通ってきた道だった。
 イベントも天気もあまりに楽しく爽快だったので、イベント後はまた青山を歩きまわって、テラス席のあるカフェで「ちょっとビールを1杯」となった。

 私は彼女に言った。
「子どもはいつか出ていっちゃうから。また自分の歩きたい道を自由に闊歩できる日が必ず来るよ。そしてそれは案外すぐだよ。私がそうだったから」

 そうでしょうかねえ。彼女はとても想像がつかないという顔でビールを飲み干し、ワインを注文した。1杯のはずが案の定2杯3杯となり、おしゃべりは夕方まで尽きなかった。
 その後は酔いがまわり、すぐ地下鉄に乗ったのか渋谷まで徒歩だったのか記憶が曖昧だが、もっと歩きたくなった気持ちだけを覚えている。

 

長野県生まれ。編集プロダクションを経て1995年独立。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』(誠文堂新光社)、『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)ほか。最新刊は『ただしい暮らし、なんてなかった。』(平凡社)。一男(26歳)一女(22歳)の母。

大平さんのHP「暮らしの柄」
https://kurashi-no-gara.com

photo:安部まゆみ

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