【連載|朝、いろいろ】第八回:パンの香りと、声の時間

石田 千

 窓のむこうは、虫の音。眠るまえのひとときに、ラジオの朗読をきくようになった。
 ベテランの俳優さん、アナウンサー、作品ごとに朗読者はかわる。はじめての小説、まえに読んだ作品、いずれも目で追うのではなく、耳に迎える。からだは枕にゆだねて、すっかり安心してきいている。
 番組が終わる。ラジオをピアノのCDにかえて、灯りを落とす。
 天井をながめて、とちゅうになった本のつづきも気になる。どうしようか。
 読んでいたのは、漢詩のなかに描かれる自然についてのエッセイ。毎晩、見開き2ページくらい、15分くらいの読書だったから、読み終えるのはずっとさきのことだった。
 15分、ゆったりしている時間、どこかなあ。
 見わたして、夕食どき、冷凍してあるパンの焼けるのを待つあいだの、16分はどうかなあ。
 朝食は食パン、夕食は、シンプルな丸パンか、くるみとレーズンのパン。週にいちど買いにいき、ひとつずつアルミホイルでくるんで、冷凍する。
 アルミホイルでくるむと、冷凍しても、パンに霜がおりない。ずっとまえ、フランス料理の本で覚えた。
 そのパンを、そのまま焼き網にのせて、弱火で、表裏4分、ホイルをとって、やはり表裏4分。そのあいだ、ワインを飲んだり、父の写真に話しかけたりして待つ。キッチンタイマーに4分ごとに呼ばれるけれど、この時間に読むのは、きっとたのしい。

 
 つぎの晩、さっそくはじめた。ラジオは、クラシック番組。静かな音楽をきいて、だまって読んで、すこしさびしくなった。それで、写真の父にきいてもらうように、声をだして読んでみる。
 朗読者のみなさんのようにはいかないけれど、声にすると、漢詩のなかの山や川、海のありよう、描かれる物語のふしぎさ。だまって読むよりも、立体的に見えてくる。そして、読めない漢字の多いこと。線をひいておいて、明日の仕事の時間にたしかめる。黙読のときは、とばして進めていたのだった。
 音読にしたら、思ったよりもはかどって、16分でも、ふつかみっかでひとつ、エッセイを読める。そうして昨晩、一冊読み終えた。
 つぎは、どんな本にしよう。読みたい本は、山と眠っている。
 毎晩、パンの香りにつつまれて読みながら、いつからこの低さになったのかとふりかえる。
 幼稚園のころから、お歌の時間が大好きだった。小学校にあがって、みんなで声をあわせて教科書を読むのも好きだった。合唱の時間は、いつでも高い声のパートだった。どこまでも、苦しまず、おおきな、高い声が出せた。
 小鳥の時間は、そこまでだった。中学生になったら、きゅうに高い音が苦しい。裏声でなんとか届くものの、おおきな声も出なくなっていた。
 合唱では、ソプラノではなく、アルトになった。ちょうど、ふてくされる年ごろにさしかかり、話すときも、低く、ぼそぼそ。そうして、そのまんま、おとなになった。

 
 だれもいないのに、活字をたどる声は、ふだんとすこしちがう。授業のときの緊張ともちがう。
 書かれた文章の思いを身にしませてから発する声は、会ったことのない著者の声音、リズムに近づいているのかもしれない。だれにも会わなかったきょうの終わりに、だれかの声といっしょにいられる実感があった。
 ちいさいころ、母に読んでもらった絵本。さいしょは、いろんなワンワンで、みたことのないワンワンたちを指さし、シェパード、チン、ポメラニアン、名まえを覚えた。そのあとは、くまのプーさん。風船につかまって空を飛んだプーさん。ところが、風船が割れて急降下してどぼん。泉のようなはちみつのなかに、飛びこんだ。はちみつ、おいしそうだなあ。ページを指でさすって、すくってはなめた。
 絵本や紙芝居をしてくださった、幼稚園の先生がた。教室を歩きながら教科書を読んでくださった学校の先生がた。
 再会のご縁はないけれど、おすがたといっしょに、お声もはっきりと覚えている。
 朝の本棚から、まぶしいきいろのカバーを手に取る。
 きょうからは、片山令子さんのエッセイときめた。
 夕食どきが、待ちどおしい。

 

 


作家・石田千。1968年福島県生まれ、東京育ち。2001年「大踏切書店のこと」により第一回古本小説大賞受賞。16年、『家へ』(講談社)にて第三回鉄犬ヘテロトピア文学賞受賞。『窓辺のこと』(港の人)、『バスを待って』(小学館)、『箸もてば』(筑摩書房)など著書多数。

 

写真家・齋藤圭吾。1971年東京都生まれ。雑誌や書籍、広告、CDジャケットなど様々なメディアで活動。主な仕事に『針と溝 stylus & groove』(本の雑誌社)、『melt saito keigo』(TACHIBANA FUMIO PRO.)、『記憶のスパイス』(アノニマスタジオ)、『高山なおみの料理』(角川書店)、『自炊。何にしようか』(朝日新聞出版)、『ボタニカ問答帖』(京阪神エルマガジン)などがある。

Instagram:@keigo.saito

 

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