【週末エッセイ|つまずきデイズ】長男5歳、長女1歳のころの、忘れられない電車でのひとこま。
文筆家 大平一枝
第六話:私の恩送りタイム
忘れられない電車でのひとこま
電車で、小さな子連れの母子を見ると、ときどき思い出す光景がある。今から15年ほど前、長男5歳、長女1歳くらいだったろうか。私はベビーカーを押し、ぱんぱんにふくれあがったマザーズバックを肩にかけ、長男の手を引いて電車に乗った。運良く座席が空いていたので長男と並んで座る。
私は、むずがる娘を抱き上げ「ベビーカー抑えといて」と息子に頼んだ。満員ではないが、乗客は多めだ。娘の機嫌がなかなか直らない。さらに息子の名を呼び、
「あっくん、バッグの中から赤ちゃん煎餅出して」。
大きなバッグを息子に預ける。彼はベビーカーを片手で押さえながら、もう片方で必死にバッグの中を探る。
「あ、ごめん、タオルあるかな」
「水筒も」
すると、隣のおばあさんが穏やかな笑みをたたえて言った。
「そんなにお兄ちゃんに頼んだら、お兄ちゃんかわいそうよ。ねえ」
はっとした。
本当にそのとおりだと思ったからだ。文句も言わず、私の右腕となってなんでも手伝ってくれる長男に頼りきっていた。彼の気持ちを汲む余裕もなかった。ママは赤ちゃんのお世話に大変なの、といわんばかりに、自分のことしかみえていない自分がとたんに恥ずかしくなった。
お母さんとして、もうちょっとしっかりね、お兄ちゃんだってまだ5歳なのよ。そんなふうに、優しく叱咤された気がした。まっこうから「ダメ」と否定するのではなく、やわらかく、私のプライドや自尊心を傷つけないいたわりのあるいい方がかえって身にしみた。
大事なことを気づかされていただきありがとうございますと頭を下げたくなる。
子育ての教訓は街のなかに
育児指南書やテレビのカウンセラーの言葉から、子育てのヒントや極意はたくさん学べるが、生きた教えや教訓は、こういう市井のふとした瞬間、人生の先輩である無名のお母さん達から学ぶもののほうが心の深いところに響いてくる。
デジタル上にはない生身の言葉にはあたたかな温度がある。もしかしたらそのおばあさんも、見知らぬ世間のどなたかから若いときに忠言をうけたかもしれない。私も、もらったものを次の世代に返したい。これを「恩送り」というそうだ。人から受けた恩を、子どもなど次の世代の人に返す。「恩返し」ではなく、大玉ころがしのように恩を次の人に送るから恩送り。美しい日本の言葉だ。
そんなこともあってか、あるいは年のせいか、電車やバスで小さな子どもを連れている母子を見るとつい話しかけたり、手助けをしたくなる。そういう中高年女性がよくいるが、まさに私もそのひとり。かわいいからだけでなく、自分の過ぎ去った日々に受けた恩を返したくてやっているので、どうぞうっとうしがらないでくださいね、と小さな子どもを持つママさんたちに伝えたい。
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作家 大平一枝
長野県生まれ。編集プロダクションを経て、1995年ライターとして独立。大量生産・大量消費の社会からこぼれ落ちるもの・こと・価値観をテーマに、女性誌、書籍を中心に各紙に執筆。『天然生活』『暮しの手帖別冊 暮らしのヒント集』等。近著に『東京の台所』(平凡社)、『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)『信州おばあちゃんのおいしいお茶うけ』(誠文堂新光社)などがある。
プライベートでは長男(21歳)と長女(16歳)の、ふたりの子を持つ母。
▼大平さんの週末エッセイvol.1
「新米母は各駅停車で、だんだん本物の母になっていく。」
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