【ドジの哲学】あのときはごめん、と言えぬまま
文筆家 大平一枝
ドジのレポート その9
「暇なの?」
フリーランスという仕事柄、代わりがおらず、不規則で、有休もないので、子どもの学校行事にあまり出られない。娘からは、雨天で延期になった小学校の運動会に行けなかったのを、6年経た今も恨みがましく責められる。当日は空けていたが、延期の日程までは気が回らなかった。
そういう状況が常なので、我が家の子どもたちは甘えるのが少々下手だ。息子が高校生の時、サッカーの怪我で長期入院をした。腿の筋肉を膝に移植するという手術で、術後当夜は痛みで一睡もできなかった。二日間、夜中付き添っていた私に、明け方、息子がぶっきらぼうにつぶやいた。
「かあさん、暇なの?」
暇なはずがない。編集者に謝り倒して、パソコンとWi-Fiを持ち込みながらの付き添いだった。執筆は外の喫茶店でやるつもりだ。
口数の少ない思春期の言葉を補うと、 “今、たまたま仕事が暇だから付き添ってくれているの?” という具合になろうか。
「うん、まあ」
しばらくだまっていたあと、またぽつりと言った。
「ごめん、付き添いさせて」
初めての手術と入院で心が弱っているのだろう。思いがけない柔らかい言葉に涙がこぼれそうになった。
本当は、「暇なの?」ではなくて、最初からこう言いたかったのだと思う。──そばにいてくれてありがとう。
だが、いい年をした男子が言えるはずもない。まして、いつもばたばた運動会さえままならない母に遠慮して、「手術の日は来て」とは彼は絶対言わない。
そう願っていたが口には出せないところを、たまたま付き添ったので、彼なりに礼を言いたかったのだろう。
じつは、この入院はその後、少し苦い思い出がある。2日間は付き添えたが、片道1時間かかる病院に、私は術後はあまり見舞いに行けなかった。仕事帰りに夫が立ち寄ることがほとんど。ある日、見舞いに来てくれた級友に御礼を伝えてもらおうとその子の母親にメールをした。するとこんな返信があった。
「息子が言うには、〇〇君、お母さんが見舞いに来ないって、少し寂しそうだったらしいですよ。17歳の男子って言ってもまだまだ子どもなんですネ。うちの息子も同じ怪我で入院してたんですが、毎日いろんな訳のわからない検査があって、痛がってました。なんか心細いんでしょうね」
大人だと思ったり、まだまだ子どもだと思ったり。この年齢の子どもはシーソーのように揺れる。私も揺れる。あっちに頭をぶつけ、こっちにぶつけ、転んだり、滑ったり、行きつ戻りつ、ときが過ぎて行く。今は遠い国で学んでいる息子に、あのときはごめんと言えないままでいる。
文筆家 大平一枝
長野県生まれ。編集プロダクションを経て、1995年ライターとして独立。大量生産・大量消費の社会からこぼれ落ちるもの・こと・価値観をテーマに、女性誌、書籍を中心に各紙に執筆。『天然生活』『暮しの手帖別冊 暮らしのヒント集』等。近著に『東京の台所』(平凡社)、『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)『信州おばあちゃんのおいしいお茶うけ』(誠文堂新光社)などがある。
プライベートでは長男(21歳)と長女(17歳)の、ふたりの子を持つ母。
▼大平さんの週末エッセイvol.1
「新米母は各駅停車で、だんだん本物の母になっていく。」
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