【金曜エッセイ】上手にできなくても、せめて丁寧に
文筆家 大平一枝
第三十八話:自分の弱さを知っている人の深い強さ
「きっれ〜〜〜い!」
娘と私は、台所で同時に感嘆の声を漏らした。京都の夫の実家に帰省したときのことだ。
高齢な義母に変わって、義妹と3人で夕食を作った。
その義妹の野菜の切り方がとびきり美しかったのだ。きゅうりや玉ねぎの形や大きさ、厚さが、測ったようにきちんと揃っている。娘もふだんから私の雑な切り方しか見ていないので、「料亭みたい」と目を丸くしている。
義妹は恥ずかしそうに言った。
「私は料理がうまくないから、せめて切ることぐらいは丁寧にやろうかなって……」
それを聞いて、私は漫画家の蛭子能収さんのことを思い出した。
三年前、拙著『あの人の宝物〜人生の起点となった大切なもの。16の物語』(誠文堂新光社)で蛭子さんを取材した。
彼はどんな現場にも、約束の時間より早く来るという噂を聞いていたので、私は意気込んで30分前に取材場所の喫茶店へ行った。するともう、優雅にコーヒーを飲んでいらした。あとから来たマネージャーさんが「いつも、ぼくよりずっと早く現場に入ります。喫茶店だと、別の締切の漫画を描いたりしていることも」と教えてくれた。
なぜそんなに早く入られるのですかと尋ねると、蛭子さんははにかんだように笑った。
「僕は絵が下手だから。せめて締切や約束の時間くらい守りたいなあって思うんです」
デビューして40年余を経るベテランの思いがけない言葉に、息を呑んだ。蛭子さんはデビュー後、漫画家として一本立ちするまでに8年かかっている。早くに結婚していたので、家計を支えるため廃品回収や清掃業務会社の営業マンとして働きながら描き続けた。彼が取材のために持参した宝物は、清掃業務会社を退職した日、「仲良かったパートのおばさん3人から餞別にもらった」(蛭子さん談)腕時計だった。
毎日身に着けているというのにピカピカ、傷ひとつないのは、毎年必ずメンテナンスに出しているからだそう。
蛭子さんの絵が下手であるはずもないが、自分の弱さを知っている人は強いなとしみじみ感じ入った。あのときの清々しい気持ちが、義妹の言葉から、甦ったのである。
相変わらず私の包丁使いは雑で、早くて適当だ。それでも、あのきれいなまな板の上のきゅうりや玉ねぎの景色、よく手入れされた腕時計の輝きは、心の隅に忘れずにある。せめて、それを忘れないことが、私の小さな強さになったらいいなと願っている。
文筆家 大平一枝
長野県生まれ。編集プロダクションを経て、1995年ライターとして独立。『天然生活』『dancyu』『幻冬舎PLUS』等に執筆。近著に『届かなかった手紙』(角川書店)、『男と女の台所』(平凡社)など。朝日新聞デジタル&Wで『東京の台所』連載中。一男(23歳)一女(19歳)の母。
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