【金曜エッセイ】絶対に見つからないと思った指輪が
文筆家 大平一枝
第七十八話:大事な落とし物
丹後の里山が夕闇に包まれ、額に汗して稲を天日干した昼間が嘘のように、急に空気が冷たくなり始めた。と、同行の女性カメラマンAさんが叫んだ。「指輪がない!」
今年結婚したばかり。大切な結婚指輪を、稲を束ねる作業中に紛失したらしい。
著書『見えなくても、きこえなくても。』(主婦と生活社)で、幼い頃から視覚と聴覚が不自由な梅木久代さんと、聴者の好彦さん夫妻の生活を一年がかりで取材していた17年前のことである。京都の過疎の村で、ご夫婦は助け合いながら、有機農業と自給自足に近い山の暮らしを続けていた。
久代さんが手探りで器用に稲を藁(わら)で結わえ、田んぼで黙々と働いていた。思わず私とAさんは、ノートやカメラを置いて農作業を手伝い始めたのだった。
何十という稲の束と、藁やおがくずが広がる田を前に、私達は途方に暮れた。この広い田で結婚指輪を探すのは、海に沈んだ小石を探すようなもの。おまけに日も暮れかけている。
Aさんには申し訳ないが、「明日の朝、また探そう。けど、新しい指輪を買うことになってしまうかもしれないね」と声をかけた。深くうなだれるAさんの姿は、久代さんの目には見えていない。
翌朝。
「ありましたよ」
にこにこしながら、好彦さんの手話通訳を介して教えてくれた。こたつの上にはシルバーリングが光っている。あっ! 私達は信じられぬ面持ちで息を呑んだ。いったいどこに? どうやって?
「久代が、もしかしたらAさんがきのうごみ袋に藁くずをいれる拍子に抜け落ちたのかもしれないと、だめ元で中身を土間に広げ、ひとつひとつ選り分けて探しだしたんです」
45リットルのビニール袋が数個あったろうか。指先の感覚で識別し、農作業で疲れ果てているはずの夜、探し続けた久代さんの姿を想像したら、胸が一杯になった。
ありがとうございます、ありがとうございますと、Aさんはいつまでも頭を下げ続けた。彼女もとうに諦めていたのだ。
「新婚さんだから絶対に見つけなくちゃって思ったの」。久代さんの包み込むような微笑の背後で、朝日が本当に後光のように見えた。
なぜ久代さんは見つけられたのか。答えはシンプルで、見つけられると信じ、諦めなかったからだ。いっぽう私は、見つかるはずがないと見当をつけ、早々に帰ってしまった。
できないと自分で決めたものは、できない。できると信じればできる、と銀色に光るそれが教えてくれた。
以来、点字メールの文通や、用事で上京の際には拙宅に泊まってもらったりと交流が続き、一昨年、好彦さんが病に倒れたときは、Aさんと一緒に久々に丹後を訪ね、4人でおしゃべりを楽しんだ。
残念ながら昨春、好彦さんは天に召され、現在、久代さんは病院や社会福祉施設にほど近い町場に越し、ひとりで暮らしておられる。メールにはいつも「元気にしているから心配しないでね」と書かれている。
新しい年は、いつもと少し違う時間が流れている。できないことではなく、できることを数えよう。目標は高いところに据えよう。久代さんのように自分を信じて前進しよう。諦めるのは、遅いほうがいい。
見つけられた指輪は、今もAさんの薬指で輝き続けている。
文筆家 大平一枝
長野県生まれ。編集プロダクションを経て1995年独立。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』(誠文堂新光社)、『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)ほか。『東京の台所』(朝日新聞デジタル&w),『そこに定食屋があるかぎり。』(ケイクス)連載中。一男(24歳)一女(20歳)の母。
大平さんのHP「暮らしの柄」
https://kurashi-no-gara.com
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