【57577の宝箱】一日を生き延びた身を湯につける この体にはわたししかなく
文筆家 土門蘭
この間、とても久しぶりに銭湯に行ってきた。
そこは廃業になる予定の銭湯だったらしいのだけど、わたしと同世代の人が買い取り再開させたのだという。壁のペンキはきれいに塗り替えられ、かわいいデザインのグッズが置かれ、受付のスタッフの方も若い学生さんだったけれど、中に入るとそこはやっぱり昔懐かしい感じの銭湯で、ほとんどのお客さんがわたしより年上の方だった。時間帯がまだ早い、夜になる前だったからかもしれない。もう少し遅くなると、若い方たちも来て客層も変わるのかもしれないなと思う。
銭湯に来るのはいつぶりだろう。子供のころはよく通っていた。実家のお風呂は古くて小さく、膝を抱え込まないと湯につかることができなかった。「こんなお風呂、入った気にならない」と言う母に、夕方になるとよく連れてこられたものだ。子供のころは、熱い湯につかることを気持ちいいなんてまったく思えず、もっと遊んでいたかったなぁとふてくされていた。
脱いだ洋服を入れるロッカー、ひんやりとした金属でできた体重計、壁に取り付けられた大きな鏡、清潔な石鹸の匂い。脱衣所で服を脱ぎながら、かつて通った銭湯を思い出す。この銭湯にもまたそれらがすべて揃っていて、とても懐かしい気持ちになった。あのころの記憶が今の自分をこんな気持ちにさせるなんて、子供のころのわたしには思ってもみなかったことだ。
§
その日は大学時代からの友人と一緒に行ったのだが、彼女とお風呂に入るのも久しぶりだった。最後に彼女とお風呂に入ったのは、大学のサークルの合宿だったように思う。今でもよくお茶をしたりお酒を飲んだりしているけれど、一緒に裸になることってあんまりない。30代半ばになった体をお互いに見せ合うのはなんだか気恥ずかしかったが、重たい扉を開けぶわっと湯気に包まれると、そんなことはどうでもよくなった。
浴場には、さまざまな女性たちがいた。さまざまな女性たちが、それぞれの体を洗ったり温めたりしていて、そうだった、銭湯ってこういう場所だったよなと思う。
鏡の前に座り込み、まずはシャワーを浴びた。鏡に映る自分の体を、洗いながらじっと見る。子供のころにも同じように、鏡に映る体を見つめていたのを思い出した。そのころと今ではずいぶん違っているはずなのだけど、もうわたしには昔の体が全然思い出せなくて、比べることができない。
でも、比べることなんてしなくていいのだろうと思う。今目の前に映るわたしの体は、誰にもまったく似ていなくて個性的だ。そして隣の友人の体も、まわりにいる見知らぬ女性たちの体も、どれひとつ似たようなものがない。
それぞれの体が圧倒的な存在感を放ち、湯気が優しくそれを包む。
わたしはそれを感じながら、たっぷりとした熱いお湯に体をつからせ、満足のため息を大きくついた。
§
以前、こんな話を聞いたことがあった。
自分の体を全然好きになれなかった女の子がいた。その子はずっと、自分の体に劣等感を持っていたのだそうだ。だけどあるとき、お風呂で自分の体を丁寧にマッサージしてみたら、初めて体を愛おしく感じたのだという。
湯につかってその話を思い出しながら、こっそりまわりを見渡してみた。自分よりも年上の女性たちが、自分の体を丁寧に洗い、じっくりと温め、タオルでてきぱきと拭いている。その姿からは、自分の体は自分で面倒を見るしかないのだと、腹をくくった強さを感じた。
わたしとて、自分の体に劣等感を持っている。やせていて骨ばっているので、もっときれいな曲線ができたらいいのにと、鏡を見るたびがっかりすることが何度もある。だけど、もうそういうのから解放されてもいいんじゃないかなと、お湯の中に沈む自分の腕やお腹や膝小僧を見ながら思った。
日々がんばってくれているわたしの体。社会の中で闘ってくれているわたしの体。年月を経て、ずっと共にあるわたしの体。わたしにはこの体しかなく、この体にもわたししかいないのだから、わたしがこの体を愛してやらないでどうするというのだろう。
友人と並んで、ジェットバスの背もたれに寄りかかる。忙しい日々で凝り固まった肩や腰が、心地よくほぐされていく。
「気持ちいいねえ」
「最高だねえ」
世界にひとつしかない体を隣り合わせ、わたしたちはただただそう言い合った。
“ 一日を生き延びた身を湯につけるこの体にはわたししかなく ”
1985年広島生まれ。小説家。京都在住。小説、短歌、エッセイなどの文芸作品や、インタビュー記事を執筆する。著書に歌画集『100年後あなたもわたしもいない日に』、インタビュー集『経営者の孤独。』、小説『戦争と五人の女』がある。
1981年神奈川県生まれ。東京造形大学卒。千葉県在住。35歳の時、グラフィックデザイナーから写真家へ転身。日常や旅先で写真撮影をする傍ら、雑誌や広告などの撮影を行う。
私たちの日々には、どんな言葉が溢れているでしょう。美しい景色をそっとカメラにおさめるように。ハッとする言葉を手帳に書き留めるように。この連載で「大切な言葉」に出会えたら、それをスマホのスクリーンショットに残してみませんか。
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