【金曜エッセイ】あのときの空も、きっと美しかったにちがいない
文筆家 大平一枝
池田晶子さんは随筆集『暮らしの哲学』で、繰り返し「この世は驚くべき当たり前に満ちている」ということを書いている。当たり前と思っていることの一つ一つが、じつは驚くほど美しかったり素敵だったり感動に満ちているのだと。さらに、薫風の気持ちよさは、若さという生命が輝いている最中には気づかないものだとも綴る。
本書は亡くなる前年、雑誌に連載していた作品をまとめたものだ。自ら病と戦いながら、なんでもない5月の頬を撫でる風の本当の心地よさに気づく歳月を記した。私は読み返すたび、人生のはかなさと池田さんが遺したメッセージの重みに胸が震え、しばらくその先を繰れなくなる。
いきなりわたくしごとだが、先月引っ越した。新居の仕事部屋からは空が見える。旧居の窓のむこうは隣家だったので、とりわけありがたく感じ、パソコンの先に広がる透き通った水色やオレンジや群青に、始終目をやる。
引っ越し狂なので、空が見える窓は9年前に借りていた家でも経験している。当時も3階に仕事部屋を陣取り、小窓から見える屋根越しの空に最初の10日ほどは興奮した。しかしすぐに、いつも当たり前にあるその風景を、気に留めなくなった。
子どもは中学生と高校生。仕事と食事作りで1日があっという間に終わっていく頃だった。学校、塾、部活と帰宅時間がそれぞれ違うので、弁当作りやら食事やら、いつもドタドタと2階の台所へ飛び込んではさっと作って食べさせ、また仕事場に戻るというような、せわしない日々だった。
あの時の空もきっと美しかったに違いないが、私は気づかなかった。
今は、夕方ちょっとベランダに出る。わかっているはずなのに、「きれいだなあ」と毎日同じ言葉が漏れ、芸がないなあと苦笑い。けれども形容詞は一緒だが、同じ夕焼けは一度もない。
終わりかけのろうそくの炎の外縁のような淡い橙色の日もあれば、焦げそうなオレンジや墨色が混じったマーブルの日もある。そしてゆっくり東の街から沈んでゆく。
9年前、この家に住んだとしてもやっぱりわからなかっただろう。
この世が驚くべき当たり前に満ちているということに気づくのに、私は50年余かかった。気づきはしたけれど、まだ100のうち97くらいしか見られていない。耳を澄ましたり、目をこらすというより、心を澄ましたい。もう作った端から丼いっぱいのご飯をかきこむような息子もいないし、娘は春には社会に巣立つ。声をかけられたらうれしくて何でもかんでも仕事を受けるような年齢も過ぎた。
たくさん心を澄ます時間があるので、驚くべき当たり前を堪能したい。もっと森羅万象すみずみまで慈しみたかったであろう池田さんの分まで。
長野県生まれ。編集プロダクションを経て1995年独立。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』(誠文堂新光社)、『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)ほか。『ただしい暮らし、なんてなかった。』(平凡社)12月発売予定。一男(26歳)一女(22歳)の母。
大平さんのHP「暮らしの柄」
https://kurashi-no-gara.com
photo:安部まゆみ
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