【金曜エッセイ】旅の何がこんなにも愛おしいのか
文筆家 大平一枝
2年半ぶりに実家に帰省できた。仕事を終え、最終電車まぢかの松本行き特急あずさに乗る。車窓の向こうの空がだんだん広くなる。青空もいいが、薄墨色の夜もいい。窓に映る蛍光灯や自分の顔をぼんやり見つめる。山梨県の大月あたりで通勤客らしいスーツ姿がぐっと減り、とりどりの紙袋を隣席に置いた旅の客が残ると、車内は一気に東京寄りから長野寄りののんびりした空気に更新される。
帰省、出張、旅行。この季節からの松本行きは登山客も多く、ワイワイ楽しそうだ。
私はひとりで長時間、乗り物に揺られるのが嫌いではない。不思議と、動く車窓の景色を見ているだけで次々と仕事のアイデアが湧く。これは昔からで、自分は移動していると想像力が喚起されるタイプの人間なのだと思いこんでいた。
また、知らない町のプールや海辺でぼーっとしている時間も大好きだ。バカンスが嫌いな人はいまいが、私はとりわけ旅先で泳ぐでも何をするわけでもなく、ぼんやりする時間がたまらない。脇に文庫本を置きながらも、じつは読まないことも多い。文庫本は「ぼーっ」に飽きたときに読むお守り代わりなのだけれど、飽きることがないからだ。
かような感覚から、旅好きの私にとって片道3時間の移動でも立派な旅であり、先日の帰省はあまりに久しぶりで嬉しくて快適で、行きも帰りも子どものようにウキウキしていた。
旅はいいなあ、とコロナ禍の我慢を経てよけいに強く思った。
ところが昨夜、スマホを階下に起き、眠りにつこうとベッドでごろごろしていた瞬間にふと思った。旅だからいいんじゃない。移動しているからアイデアが浮かぶわけでもない。日常に“隙間”ができるから、旅はいいんじゃないか?
自由に東京を超えて移動できなくなったこの2年間は、私に限って言えばスマホを開いている時間が格段に増えた。癖のように用事がなくてもスマホを開き、おびただしい情報に目を留める。それぞれ役に立ったり、考えさせられたり、笑ったり、感情と好奇心を刺激される魅力的な情報が多いから、次々とクリックしてしまう。
いっぽう乗り物で移動する時は、流れゆく景色に目が行くので、スマホをあまり見ない。すると半ば自動的に、思考や自分の内側と対話をすることになる。次はあんなことを書きたいなあまとめたいなあとアイデアが湧いてくる。実現するには、とそれについてさらに思いをめぐらす。
ぼーっとプールの水面を見ているときもそうだ。つまり「考える」時間がたくさんあるから、旅は発見があるし、心地いいのだ。
一日のはざまに思考を巡らす隙間があると、いろんなことを想像して自分で遊べる。
私は夜の読書時間を確保したいので、階下にスマホを置いて寝床に入る。疲れて読む気に慣れない時は、ぼーっと眠くなるのをなんとなく待つ。不思議なものでそんなときに案外大小の愉快なアイデアが浮かぶのである。別に仕事のことばかりではない。近くに迫った家族の祝い事のプレゼントや次の日曜に予約しているネイルサロンで試したいデザイン、あした食べたい料理のために冷蔵庫の食材を脳内でくみあわせたり、あるいはおもむろに布団をはねのけ入眠用のストレッチを始めたり。
書き出すほどでもない、どうでもいいようなことばかりだ。
ささいなことをああでもないこうでもないと考えて、よしこうしようと小さな答えを出したころ眠くなる。
この、脳を柔らかく揉むような、なんでもない考え事の時間が好きだ。
ひっきりなしに情報の洪水を浴びていると、日常に一ミリも隙間ができない。仮に空き時間ができても、スマホで検索しながらストレッチをしたりなんかをしてしまう。考える余地、自分と向き合う隙間がないまま24時間が過ぎてゆく。
本を読む気になれず、かといって電子の光も浴びたくない、そんな夜の床は「ぼーっ」があるから心地いいんだな。旅は、そんな「ぼーっ」にあふれているからいいんだなあとわかった。
よしよし。今夜もスマホを階下に置いて、もうちょい長い旅の予定でも考えてみよう。もう行った誰かのブログや、食べた気になれる親切な写真がひとつもない、脳内黒板にありったけの想像力を動員して計画表を書き込みながら。
世の中がちょっと落ち着き、そんな計画を立てられるようになったことがまことに嬉しいのである。
長野県生まれ。編集プロダクションを経て1995年独立。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』(誠文堂新光社)、『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)ほか。最新刊は『ただしい暮らし、なんてなかった。』(平凡社)。一男(26歳)一女(22歳)の母。
大平さんのHP「暮らしの柄」
https://kurashi-no-gara.com
photo:安部まゆみ
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