【40歳の、前とあと】アン・サリーさん 後編:歳を重ねるごとに、自分を手放して身軽に
ライター 一田憲子
不器用だった10代、心を満たしてくれるたのがブルースだった
医師、歌手、妻、母として忙しい毎日を送るアン・サリーさん。
前回は、40歳のその先にある、60歳、70歳、80歳までを見つめてこそわかる『40歳」の位置について伺いました。
ここで、少しアンさんのルーツを振り返ってみましょう。
在日コリアンの3世として生まれたアンさん。お父様もお医者様だったそうです。
アンさん:
「中学〜高校時代は、どうして人間は生きているのか……なんてことを、今考えたらびっくりするぐらい、真剣に考え、悩んでいましたね。
とても不器用で、自分に欠落感があったんです。友達の前では明るく振舞っていたけれど、ひとりになったとたんに、自分の中に引きこもって……。
マンホールの底のほうに沈んでいて、上のほうにかすかにある光を覗いて生きているみたい。根暗だったなあ(笑)」
▲高校生の頃から、音楽好きの友達たちと集まってバンドで歌うように
そんな心の欠けた部分を埋めてくれたのが、音楽だったのだと言います。
ジョニ・ミチェルなど、歌詞の中に人生の陰陽が含まれているブルースに惹かれるようになりました。
医学部に進学し、バンドで歌う毎日に。どんなときにも歌えば元気になれた
大学進学時には、音楽か、医学の道に進むか迷いましたが、お父様の「どちらもやっていけばいい。医者は医学部に行かないとなれないから、とりあえず選択肢は増やしておいたほうがいい」というアドバイスで、故郷の名古屋から上京。大学の医学部で学びました。
さらに、ブルースやソウルを演奏するサークルに入り、ライブハウスなどで歌うように。
卒業後医師として都内の病院に勤め始めてからも歌だけはやめなかったそう。
アンさん:
「18歳で東京に出てきたのですが、寂しがりやで、一人暮らしが向いていなかったんですよね。
病院で働き始めてからも、仕事はとてもやりがいがあったけれど、家に帰ると寂しくて。テレビもなかったので、CDをかけてステレオの前で歌ったり。
病院でも、ものすご〜く端っこの部屋まで行ってこっそり歌っていました(笑)歌うと気持ちがさっぱりする。自分の中のモヤモヤを浄化できる気がしたんです」
たまたま歌っていたライブハウスに来ていたプロデユーサーがアンさんの唄に耳をとめ、29歳で「voyage」でCDデビュー。これがたちまち評判となります。
ところが、その頃ちょうど先輩医師のすすめでアメリカ・ニューオーリンズの血圧の研究センターへ行くことが決まっていました。
アンさん:
「ジャズの本場のニューオーリンズ、と聞いただけで行く行く!って言いました(笑)
でも、それだけではなくて、日本で生まれ育ったけれど外国籍だった私は、いったい私ってどんなキャラクターなんだろう?と一度客観的に外から見てみたかったんです」
こうして、旅立ったアンさん。研究所で仕事をしながら、ジャズクラブにブルースやソウルミュージックを聞きに。
アンさん:
「自分のCDを持って行ってバンドマスターに見せて『こんなことをやっているの』と言ったらすぐに『じゃあ、歌え』って言われて。
『テンポは?』『キーは?』と尋ねられ、『これぐらい』と答えるともう演奏が始まっているんです。
私がワンコーラス歌ったら、少しジャズのメロディラインを変えてアレンジして演奏してくれ、やがてスキャットがはじまる……。
なんの打ち合わせもなく、音楽を作っていくという衝撃的な体験でしたね。ドキドキしたけれど、楽しかったなあ〜」
▲ニューオルリンズにて、バンド仲間と
▲中央でトランペットを吹くのがご主人
その間、帰国して2枚目のCDを録音するなどミュージシャンとしての仕事も少しずつ実を結んでいました。
さらに、このニューオーリンズでトランペット奏者だったご主人と運命的な出会い結婚。妊娠を機に帰国したというわけです。
自分以外の人のために生きるという幸せを知った
帰国後は、医師とミュージシャンと母と妻、という生活が始まりました。
「大変じゃなかったのですか?」「何かひとつをやめようと思わなかったのですか?」と聞いてみました。
アンさん:
「産休明け当初は、平日2日だけの勤務にしていました。
幸い、病院に職員のための保育園があったので、朝授乳して預けて、昼迎えに行って授乳して帰る……ということが可能だったんですよね。でも、常に寝不足で疲れていました。
ライブも、回数は今よりぐっと回数が少なかったんです。でもね、きっと私はどっちもやりたかったんでしょうね」
そして、こう続けます。
アンさん:
「子供を産んでみて、自分のことだけを考えない幸せっていうものがあるんだ、と気付きました。
そこから、少しずつ、私の在り方が変わってきたんだと思います。
4年前、父が亡くなって、より深くそのことを感じるようになったかな。
永遠に生きるんじゃないかと思うぐらい、元気で強い人だったのに、65歳で病気が発覚して4年ぐらい闘病し、70歳でなくなりました。自分の親がなくなると、改めて自分の心を見つめたくなるものですね。
ずっと前から興味はあったのですが、もう一度しっかり仏教の本を読んでみようかなと、持ち歩くようになりました。
本を読んで、自分の『息』を見つめたり、瞑想をしたり。
人って、自分でコントロールしなくても、息をしていますよね。その様子を客観的に見つめてみるんです。すべてを自分でコントロールしよう、と思わなくても、あるがままでも、私たちは生きていける。
そのことに気がつくと、『今でいい』『これでいい』と思えます」
▲アンさんがなんども読み返しているという仏教関連の本
娘さんたちが、小学生になり、40歳を過ぎてから、子育ても少し楽になったところ。やっとできた自分の時間で曲づくりをすることもできるようになりました。
アンさん:
「作るぞってピアノや机に向かっている時よりも、通勤途中の電車や、歩いている時、休日の朝、布団の中でゆっくりしているときなどに、ふっとメロディーが浮かびやすいです。
それを五線譜が近くにあれば忘れないうちにさっと書き留めて、あとでピアノの前で肉付けしていく感じかな」
歳を重ねるごとに、自分を手放して身軽に
「CDが爆発的にヒットしたり、人気歌手になる、ということには興味がない」と語るアンさん。
ただ、好きな歌を歌い、聞いてくれる人がいて、一緒の時間を共有できれば幸せ……。
医師、歌手、妻、母。そのどれもを諦めないアンさんは、きっといい意味での「欲張り」に違いないと思っていました。
でも、どうやら少し違ったよう。
自分を自分以上に見せようとしたり、ここにないものを求めたり……。アンさんにはそんなところがちっともありません。
与えられた舞台で、いろいろな人生の物語を持ち、集まったお客様を前に、自分という箱を通して普遍的な音楽の世界を一緒に楽しむ、その接点を探す作業が楽しいのだと言います。
医師としての立ち位置も同じ。患者さんを診察し、治療法を説明し、ときには、ジョークを言って笑わせてオチを作る……。
「その小さな世界をどうやって作るか、どう安心感を持って帰ってもらうかを研究するのは結構好きですね」。
そう語るアンさんは、40歳を過ぎ、歳を重ねるごとに、自分を手放し、どんどん身軽にラクになっていったよう。
自分が幸せになる術を考えるより、周りの人が幸せになる姿を眺めているほうがハッピー。
「人間は何のために生きるのだろう?」と悩んだ中学、高校時代。その答は、自分の中ではなく外にあった…。
医師として患者さんの命に向き合うことも、誰かの心を少しだけ癒す歌を歌うことも、アンさんにとっては、きっと同じことなんだな、と腑に落ちました。
取材からの帰り道、私も周りにいる人の笑顔を見つけてみたい、と思ったのでした。
(おわり)
【写真】有賀傑
もくじ
歌手 アン・サリー
幼少時からピアノを習い音楽に親しむ。大学時代よりバンドで本格的に歌い始め、卒業後も医師として働きながらライヴを重ねる。 2001年「Voyage」 でアルバムデビュー。2002年から3年間ニューオリンズに医学研究のため暮らしながら、音楽活動を並行して続ける。帰国後は医師としての勤務の傍ら日本全国でライヴ活動を行い、2児の母となった2007年には「こころうた」を発表。時代やジャンルの枠を超えた、柔らかくも情感あふれる歌唱と、そのナチュラルなライフスタイルは幅広く支持されている。
ライター 一田憲子
編集者、ライター フリーライターとして女性誌や単行本の執筆などで活躍。「暮らしのおへそ」「大人になったら着たい服」(共に主婦と生活社)では企画から編集、執筆までを手がける。全国を飛び回り、著名人から一般人まで、多くの取材を行っている。ブログ「おへそのすきま」http://kurashi-to-oshare.jp/oheso/
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