【金曜エッセイ】実家で起こった、母のメガネ紛失事件(文筆家・大平一枝)
文筆家 大平一枝
第五話:メガネ紛失事件
今夏、仕事に集中するため10日間ほど実家の長野に帰った。〆切りまで時間がなく、「実家の親に食事の世話をしてもらって、仕事に集中したら?」という夫の計らいによるものだ。こう書くと聞こえはいいが、家中に資料が散乱している状況に、彼も疲弊しきった末の提案であった。
5日間以上実家で過ごすのは、長男の里帰り出産以来で21年ぶりである。さらに、子なしの単身帰省は、18歳で進学のため家を離れてから初めてということもあり、どこか新鮮な気持ちで、老親ふたりの生活を俯瞰した。
すると、なにからなにまでおもしろいことだらけ、不思議なことだらけで笑えた。
まず、ふたり暮らしなのに、ものが多い。父は洋食をそれほど食べないのに、ウスターソースが3本もある。ドレッシングも3〜4種。器は、売るほど。大きなすいかに、箱一杯の桃。あれは誰が食べるのだろう。
突然、娘が加わったものだから、母がやたらに料理をはりきった。朝から、揚げ物やフルーツが並ぶのには参った。おやつも午前と午後に必ず呼ばれる。頂き物のゼリーや煎餅が食べても食べてもなくならない。こちらは中年だというのに、親のなかでは小学生で止まっているかのよう。
「もう食べきれないから! 眠くなったら書けないから!」と断るのに、毎日おやつを用意された。
食べ物も持ち物も、「足るを知る」という言葉を伝えようと思ったが、いい年をして三食世話になっている身なので控えた。
結婚50年余というのに、毎日飽きずに口げんかをするのにも驚かされた。そのくせ、こちらが冷や冷やするようなきつい言い方でやりあうのに、5分後には仲良く高校野球などを見ているので、あっけにとられる。
本人たちは気がついていないが、けんかの原因の大半は、“もの忘れ”である。
あるとき、風呂上がりの母が「眼鏡がない」と騒ぎ出した。がさごそと部屋中を探す。父は、またいつものことと無視している。
ものを探しているときの人間はたいがい、いらついている。半分怒ったような口調で母が尋ねる。
「一枝、知らない?」
「さあ」
「お父さん、どっかでみなかった?」
「知らん」
20分くらい経った頃だろうか。
父が、自分の眼鏡を外して言った。
「あ、これか」
「やだ、この人。私の掛けてる。あーおかし」
勝者のように、母が冷やかす。
「なんでこんなの掛けとるんだ?俺は」
と、父はぶつぶつつぶやいている。
それから数日は、ことあるごとに母がその話題を持ち出し、からかっていた。眼鏡ひとつでそこまで引っ張るとは、平和なものだなあと思う。
この人たちは私が幼い頃から始終口喧嘩が絶えなかったが、何分後かにはなにごともなかったように、ふたり、こたつに入って茶などをすすっていた。夫婦って変だなと思っていたが、この10日間で長年の謎が解けた。
年齢ではない。
ふたりは、いざこざや絆のほころびを、さっさと忘れる術に長けていたからここまで続いたのだ。
遠慮が無いのでぶつかるときは激しいが、その後けろっとした顔で、心の軌道修正をする。その繰り返しで、ふたりは今日まで来たのだな、とわかった。相手のミスを本当に忘れたのか、忘れたことにしてあげているのかはわからない。
私はやっぱり年を取るのは怖いが、忘れっぽくなることは悪いことばかりではないと思った。忘れないとやっていけない、続かない、生きていけないことがきっとたくさんある。
1日12時間、机に張り付いて、原稿をなんとか書き終え、東京に戻った。最寄りの駅まで送ってくれた両親は、車の中で、近道について言い争いをしていたが、私は聞き流した。どうせ、言い合ったことなど帰りにはすっかり忘れているだろうから。
文筆家 大平一枝
長野県生まれ。編集プロダクションを経て、1995年ライターとして独立。大量生産・大量消費の社会からこぼれ落ちるもの・こと・価値観をテーマに、女性誌、書籍を中心に各紙に執筆。『天然生活』『dancyu』『Discover Japan』『東京人』等。近著に『届かなかった手紙』(KADOKAWA )、『男と女の台所』(平凡社)、『あの人の宝物』『紙さまの話』『信州おばあちゃんのおいしいお茶うけ』(誠文堂新光社)などがある。プライベートでは長男(21歳)と長女(17歳)の、ふたりの子を持つ母。
▼大平さんの週末エッセイvol.1
「新米母は各駅停車で、だんだん本物の母になっていく。」
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