【金曜エッセイ】無知の力(文筆家・大平一枝)
文筆家 大平一枝
第二十一話:無知の大きな力
つねづね、“自分は無知である”と知っている人が一番強いなあと感じる。とくに私などはつい知ったかぶりをしてしまうので、「自分はなにも知らないのです」と言う人の、率直な聡明さに惹かれる。
無知の知を考えるとき、必ず思い出す人がいる。
15年ほど前、テレビ番組で見た、ある女性芸人のことだ。彼女は当時、本も読まず、映画も見ず、とにかく常識やものを知らないというキャラクターづけで、大物芸能人の前でも物怖じしない、天真爛漫な芸風が愛されていた。
その日はちょうど作家の司馬遼太郎の命日かなにかで、ゲストの一人だった彼女は、次のような内容のコメントをしたと記憶している。
自分の実家の近所に司馬遼太郎さんが住んでいたが、亡くなるまで名前も知らず、葬式の日にたくさんマスコミが集まっていて、「あのおっちゃんはそんなすごい人だったんか」と驚いた。周囲の人に聞いたら、昭和の大作家である、彼の小説を知らないのはもったいないと言われ、ご近所でありながら何も知らない自分が恥ずかしくなり、とりあえず『竜馬がゆく』を読んでみた。するとおもしろくてグイグイ引きこまれ、仕事の合間に何年かかけて全8巻を読みおえた。
周囲のタレントの「全巻? すごい!」という言葉に、彼女は聞き返した。
「私はふだん、本を読まへんから。みんなが知っている司馬さんを亡くなってから知るなんて恥ずかしくて、必死に読んだ。それからハマって『坂の上の雲』や『街道をゆく』を読んでる。え? みんな、読んでないの?」
テレビを見ながら、今度は私が、ひどく恥ずかしくなった。1冊も読んでいないのに、司馬文学を知ったふうな顔をして、過ごしてきたからだ。
同時に、”自分の無知”を知っている人の強さを、痛烈に実感した。
今も変わらず、画面で活躍している彼女の姿は、きらきらとまぶしい。
人より遅く知ろうがなんだろうが、教養を得るのにベストタイミングなどない。知りたいと思ったときが、そのとき。そのためには、いつも心をフラットにして、“自分の無知”を心得ておかねばならない。
文筆家 大平一枝
長野県生まれ。編集プロダクションを経て、1995年ライターとして独立。『天然生活』『dancyu』『幻冬舎PLUS』等に執筆。近著に『届かなかった手紙』(角川書店)『男と女の台所』(平凡社)など。朝日新聞デジタル&Wで『東京の台所』連載中。プライベートでは長男(22歳)と長女(18歳)の母。
▼大平さんの週末エッセイvol.1
「新米母は各駅停車で、だんだん本物の母になっていく。」
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