【日々に旅する瞬間を】第2話:夕方から、お風呂に入ってみたら

編集スタッフ 齋藤

旅に出たい。風のなかにかすかに春の匂いを感じはじめたこの頃、そう思うことが増えました。

「旅」と言うと遥か遠くへ行くことを思い浮かべます。けれども旅とは、土地を移動する物理的なものだけではないはず。

一冊の本を読んだ後も、ひとつの恋がおわった後も、部屋の中にいつもと違う目を見張るような美しい光が差し込んだ瞬間も、気持ちや精神は遠くの彼方へ旅をしていたかもしれません。

この特集では架空のひとりの女性を主人公に、いつもの暮らしの中に不意に現れた、旅のような非日常の瞬間を切り取りました。

1話目は30分早く起きてしまった朝の風景をお届け。そして物語の2話目は、夕方にお風呂に入ると決めたところから。

1話目を読む>>>

 



まだ外は明るいけれど

もうお風呂に入ってしまおう


ある日の夕方、私には特に予定がなく何もすることがなかった。

とはいえもう夕方。映画でも観ようかとも思ったけれど、疲れているのかどうにも集中できそうにない。

けれどもせっかく時間があるのだから、何か楽しみを見つけたい。そこで私はいつもはできないことをしようと思い立ち、まだ外は明るいけれどお風呂に入ってみることにした。

お湯はぬるめにして、長風呂と決め込もう。

引き出しにしまったままになっていた入浴剤をいれて、落ち着く香りのルームスプレーもひと振り。香りに導かれるようにして、なんだか心が浮き足立つのを感じた。

いつもお風呂は、私にとって1日の仕上げだった。疲れを癒す場所であり、汚れを落とす場所であり、つまるところ明日のために存在するもの。

けれどもこのお風呂は、それとは違う。だって眠るまでにはまだ何時間もあるのだから。明日ではなく、今日のために入るお風呂なのだ。

私の心ははしゃいでいた。まだ幼かった頃、お風呂は実験の場であり冒険の舞台だったことを思い出して。

バスタブに入った大量の水はどこまでもつづく大海原に見え、まるで自分がイルカにでもなったかのよう。全てが、心を刺激してやまなかった。

水の感触、色、匂い。

夕方に入ったお風呂は私に、豊かで繊細な子どものような感性を呼び戻してくれた気がした。

そして、大人になった今だからこその楽しみも。

冷蔵庫で冷やしておいた、桃のフルーツビール。

まだ夜ではないけれど、今日くらい良いでしょう。そう自分に許しを出して、小気味よい音を奏でながらビールがコップに滑り落ちていった。

乾杯。

部屋には、なめらかな西陽がさしていた。

明るいうちから飲むお酒がもたらす解放感に胸躍らせながら、夕陽に染まってゆく部屋の中で私は思わず頬をほころばせる。

全然眠たくなんてないのに、このまま眠っても構わないのだと思える贅沢を、ゆっくりとかみしめた。

Photo : Mitsugu Uehara

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