【新連載|本から顔をあげると、夜が】第一回:失踪への憧れ
穂村 弘
はじめまして。穂村弘と申します。普段は短歌やエッセイなどを書いています。このたび読書日記を連載させていただくことになりました。読書日記と云いつつ、本のほかに散歩や旅行や観劇や買い物など、日々の出来事も綴っていければ、と思っています。最近はまっているものは、チーズかまぼこです。よろしくお願いいたします。
X月X日
阿佐ヶ谷駅のホームから富士山が見えた。ビルとビルの間から、けっこう大きくはっきりと。今までに何百回も降りた駅なのに初めて気がついた。不思議だ。あんなところに富士山、あったかなあ。パラレルワールドに来たような気分になる。でも、きっと身近なのに知らないことは他にもいっぱいあるんだろう。
阿佐ヶ谷は『A子さんの恋人』(近藤聡乃)という漫画の舞台になっている。その作品の中に、好きなアイスクリーム屋さんが出てきて嬉しくなった。私がいつも食べるカカオ味を選んだ登場人物に親近感を持った。それ、おいしいよね。
こんな短歌を思い出した。
大好きな音楽の歌詞に僕が住む街の名前があって、生きる 犬口マズル
わかる気がする。音楽の歌詞や漫画や映画に知ってる街やお店が出てくると嬉しいのは何故だろう。以前、近未来を舞台とするアニメーションの『攻殻機動隊』を見ていたら、荻窪の焼き鳥屋『鳥もと』が出てきた時も興奮した。現実世界では、このお店は2009年頃に移転してなくなってしまった。でも、アニメの中では2030年にもちゃんと生き残っていた。やっぱりパラレルワールドだ。
X月X日
鳥取に来た。高校生の短歌大会の審査員をするためだ。夜御飯を食べようと思って、土地勘のない街をふらふらと歩き回る。鳥取の名物といえばなんだろう。梨と蟹くらいしか思いつかない。梨は御飯にならないし、蟹は季節が微妙にズレている。居酒屋とか焼肉屋にしようかと思ったけど、なんとなく一人では入りにくい。迷いに迷って、結局、ラーメンを食べてしまった。
夜、知らない町でラーメンを啜っていると、失踪した人のような気分になる。さみしくて切ないけど妙に気持ちがいい。コンビニで買った漫画『ザ・ファブル』(南勝久)を読みながら食べた醤油ラーメンは、すごく普通でおいしかった。特別においしいものよりも普通においしいものが食べたい気分の時がある。なんならちょっとまずいくらいのものが食べたいことさえあるかもしれない。幸福な家庭よりも理由のない失踪に憧れたり、楽しさよりもさみしさや切なさに浸りたくなったりすることがあるようなものだろうか。
X月X日
「マームとジプシー」という劇団の映像作品に、サンタクロース役で出演した。サンタの恰好をして、大量の珈琲豆をガリガリ挽くという謎の役柄だ。依頼を受けた時、演技の経験もないのにどうして? と首を捻った。でも、ここで断ったら、サンタの服を着る機会はもうないだろう。そう思って引き受けたのだ。赤い服に三角帽子に白い髭。「似合いますね」と云われて嬉しかった。「そうですか」とにこにこする。サンタの恰好が似合うって、よく考えると微妙かもしれない。でも、どんなことでも認められるのは嬉しいものだ。精一杯サンタっぽく珈琲豆を挽いた。
X月X日
仕事のメールを見ていたら、その中に「パラグライダーをしませんか」という依頼があって驚く。家に籠って本ばかり読んでいる私に、どうしてそんな話が来るのだろう。パラグライダーが自分の人生に関わってくるなんて考えたこともなかった。どうしよう。ここでやらなかったら、一生やらないことが確定だ。そう思って、迷いながらも引き受けることにした。でも、不安だ。未経験の素人がサンタの服を着ても特に危険はないけど、パラグライダーはそうはいかないだろう。大丈夫かなあ。これがバンジージャンプなら断ったと思う。
X月X日
荻窪の図書館の外にある椅子で、『テロリストのパラソル』(藤原伊織)を読んでいたら、作中に短歌が出てきて、おっと思う。
殺むるときもかくなすらむかテロリスト蒼きパラソルくるくる回すよ
テロリストが楽しそうに蒼いパラソルを回している、人を殺す時もこんなふうにするのだろうか、というほどの意味だろう。他にも何首か(短歌は一首、二首と数えます。百人一首の一首ですね)登場する。それらも作者が自作したらしい。小説などの中に短歌が出てくると嬉しいのは、知っている街やお店が出てくると嬉しいのと同じ理由かもしれない。つまり、短歌というジャンルは、歌人である自分が住んでいる街みたいなものか。
作中に短歌が出てくる小説としては、他にも『病院坂の首縊りの家』(横溝正史)とか『戻り川心中』(連城三紀彦)などが思い浮かぶ。『テロリストのパラソル』もそうだけど、いずれもミステリーだ。『そして誰もいなくなった』(アガサ・クリスティー)などの海外作品にマザーグースがよく出てくるように、日本のミステリーには、しばしばわらべ歌や短歌が登場する。謎めいた言葉の中に事件を解く鍵が隠されているのだ。
1962年北海道生まれ。歌人。1990年歌集『シンジケート』でデビュー。詩歌、評論、エッセイ、絵本、翻訳など幅広いジャンルで活躍中。著書に『本当はちがうんだ日記』『世界音痴』『君がいない夜のごはん』他。
1981年神奈川県生まれ。東京造形大学卒。千葉県在住。35歳の時、グラフィックデザイナーから写真家へ転身。日常や旅先で写真撮影をする傍ら、雑誌や広告などの撮影を行う。
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