【読書日記|本から顔をあげると、夜が】第十二回:最後の挨拶

穂村 弘

X月X日

 「高橋源一郎の飛ぶ教室」というラジオの番組で、高橋源一郎さん、金原ひとみさんと一緒に読書会をした。一人一冊ずつお気に入りの本を挙げて読み合った。高橋さんのお薦めは『美は乱調にあり』(瀬戸内寂聴)、金原さんは『最後の挨拶』(小林エリカ)、私は『綿の国星』(大島弓子)である。それぞれに思い入れのある本について、あれこれと語り合う時間は楽しかった。
 『最後の挨拶』は、作者の自伝的な家族の物語である。私が「家族ものは嫌いなんです」と云うと、高橋さんと金原さんが何故か弾けるように笑った。ただ、自分の云い方は言葉が足りなかった。正確には「血の繋がりを根拠として家族を無条件に良きものと捉える感覚が苦手なんです」というべきだった。『最後の挨拶』は、そういう話ではない。むしろ真逆。
 生放送が終わったら、もう深夜だった。高橋さんが金原さんと私の肩をまとめて抱えるようにハグしながら、「またね」と云ってくれた。

 

X月X日

 『最後の挨拶』は、四姉妹の末っ子であるリブロの視点から描かれる。この家族を結びつけているものは血縁ではなく、二つの透明な絆である。一つは宮沢賢治も学んだという人工言語エスペラント、もう一つは名探偵シャーロック・ホームズ。なんというレアな組み合わせだろう。だが、そもそも夫婦の間には血の繋がりはないのだから、彼らを結びつける固有の絆が必要には違いない。『最後の挨拶』の場合はこうだ。

 次に、父が女に偶然会ったのは、銀行のそばの路上であった。
 (略)
 父は女が手にしているその本のタイトルを見て驚いた。
『正しく覚えられるエスペラント入門』
 それはかつて父が金沢の古本屋で手にし、学んだのと同じ本だったから。
 咄嗟に女を呼び止め、父は言った。
  Marta vent’, Aprilaj ploroj;(マルタ ヴェント アプリーライ プローロイ)
 それはエスペラント語、第二十一課に挙げられていた例文だった。
  三月の風 四月の嘆き
 女がエスペラント語を聞いたのははじめてのことだった。
 これまでそれは本でしか読んだことがなかった言葉であったから。
 しかしすぐさま女はそれを理解し答えた。
  Tiam venas Majaj floroj.(ティーアム ヴェーナス マーヤイ フローロイ)
  其時 来る 五月の 花が
 父と女は顔を見合わせた。
 女がぱっと笑った。その拍子にメガネがずり落ちた。
 ほどなくして父はその女と再婚した。
 その女が、モモの、アジサイの、ユズの、そしてリブロの母になる。

 エスペラント語が縁で結ばれた二人は、やがて協力してコナン・ドイル作であるシャーロック・ホームズ・シリーズの翻訳を手がけることになる。長い年月の果てに、その仕事は完成した。だが、終わりの日がやってきた。

 父の葬式は杉並の小さなセレモニーホールで行った。
 生前からあらゆる行事を悉く忌み嫌っていた父が、葬式などというものを歓迎するはずもない。家族と親戚、ごく親しい人たちだけで、別れの会をすることにした。
 (略)
 遺影にするような写真もなかったので、リブロが父の写真の背景をフォトショップで切り抜き、それを白いリボンのついた額縁に入れて飾った。
 それを眺めたモモは、手紙や小切手なんかも偽造できそうじゃない、と褒めた。

 「手紙や小切手なんかも偽造できそうじゃない、と褒めた」とは、葬儀の場に相応しくない不謹慎な発言である。でも、その背景には、家族の間で共有されたホームズの世界がある。そして、シリーズの共訳者たる母は、娘たちの何倍も不謹慎なのだ。幾つか抜き出してみよう。

 姉たちが凄い痛そうと声をあげると母は、切り裂きジャックにやられるよりはずっとまし、と冗談を言った。

 パパの頭蓋骨に穴を開けるなんて。
 姉たちが口々に言う。
 母が、でも頭を銃で撃ち抜かれるよりはずっとまし、と冗談を言う。

 ただ誰にも迷惑をかけず、死んでゆくことだけが期待されていた。
 母は、でもミルクに毒を混ぜられ安楽死させられるテリア犬よりはずっとまし、と冗談を言った。

 リブロが詰め寄ると、母は、瀕死のホームズの面倒を見なくちゃならないハドスン夫人よりはずっとまし、と冗談を言った。

 このような悪趣味な「冗談」の背後に愛を感じる。それは家族を襲った現実の厳しさを上回る、夫と共有する物語世界への愛だ。もともとは他人である夫、そしてリブロ以外は血の繋がらない娘たち、ホームズはそんな家族の共通言語であり透明な絆だった。この本に与えられた『最後の挨拶』というタイトル自体、シリーズの同名作品からの本歌取りである。

 

X月X日

 リブロの父と母が、現実の世界で訳した本家『最後の挨拶』を読んだ。『シャーロック・ホームズ最後の挨拶』(アーサー・コナン・ドイル 小林司/東山あかね訳)である。ここには「瀕死のホームズの面倒を見なくちゃならないハドスン夫人よりはずっとまし」の元ネタである短篇「瀕死の探偵」も収められている。名探偵シャーロック・ホームズが死の床につくという怖ろしい話だが、その中に有名な「牡蠣」のエピソードが出てくる。

 「彼に会ったら、君の見たとおりに、ぼくの容態を伝えて欲しい。(略)それにしても、大洋の底が、なぜ牡蠣でぎっしりと埋まってしまわないのかぼくは不思議でたまらないよ。繁殖力が、あれほど強いというのに! ああ、また脱線してしまった。頭脳が頭脳をコントロールしている仕組は不思議だなあ。ところで、何の話だったかな、ワトスン?」

 物語の本筋とはまったく関係がなく、瀕死のホームズが譫言めいた言葉を口走るシーンである。でも、この「牡蠣」があまりにも印象的だった。そう感じるのは私だけではないらしく、インターネット上には、「あの「牡蠣」の「瀕死の探偵」」的な発言が幾つも見られる。ぜんぜん「牡蠣」の話じゃないのに面白い。でも、これに限らず、傑作にはそういう細部の生命力があるようだ。
 この小説に基づいて詠まれたと思われる短歌を思い出した。

「愛してる」ではなく「来ると思った」とホームズは云う瀕死の目見で

海老原愛子

 「目見」は「まみ」。ドイルの「瀕死の探偵」にはこのような場面はないから、たぶん短歌の作者の創作なのだろう。瀕死のホームズは駆けつけた親友ワトスンに向かって、ただひと言、「来ると思った」と云ったのだ。一見そっけなく、けれども「愛してる」よりも遙かに深い愛の言葉。痺れるなあ。

 

X月X日

 読書日記「本から顔をあげると、夜が」は、今回が最終回です。一年間、ありがとうございました。子どもの頃から、本が好きでした。現実がどんなに厳しくても本がある。頁を開けば、そこにはもう一つの世界が息づいている。また、どこかでお目にかかれるのを楽しみにしています。

 ロンドン、ベーカー街、221B。
 たちまちリブロがいるこの部屋は、ヴィクトリア時代のロンドンにはやがわりした。
 炬燵は丸テーブルに、蜜柑の皮はクロスになった。
 きっかり十七段ある階段を昇ってゆく。
 マントルピースには手紙がナイフで突き刺され、暖炉では赤々と火が燃えている。
 (略)
 そこでは、もうとっくのむかしに死んでしまった人たちが、みんな生きていた。
 リブロの目の前、ここに、生きていた。

        +

「こちらワトスン先生。シャーロック・ホームズさんです」
「はじめまして」彼はていねいに挨拶すると、思いがけず強い力でわたしの手を握りしめた。「アフガニスタンにおられたのでしょう?」

『最後の挨拶』

 

1962年北海道生まれ。歌人。1990年歌集『シンジケート』でデビュー。詩歌、評論、エッセイ、絵本、翻訳など幅広いジャンルで活躍中。著書に『本当はちがうんだ日記』『世界音痴』『君がいない夜のごはん』他。

 

1981年神奈川県生まれ。東京造形大学卒。千葉県在住。35歳の時、グラフィックデザイナーから写真家へ転身。日常や旅先で写真撮影をする傍ら、雑誌や広告などの撮影を行う。

 

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