【金曜エッセイ】はじまりの味
文筆家 大平一枝
第五十一話:はじまりの味
最近できた近所のジャズバーに何度か通っている。若い店主はジャズに、前店で店長をやっていたという若いバーテンダーTさんはお酒に、探求を惜しまぬ姿勢がさりげなく伝わってきて、彼らと話していると爽やかな気持ちになる。
その日は中華を楽しんだあとだったので、いつも頼むウイスキーでなく、口中がさっぱりする何かを、とお願いした。夜深い時間。客は私ひとり。Tさんが「ではジンリッキーを」と作ってくれた。
なるほど、きりっと辛口で旨い。遠くでジュニパーベリーという香草のスパイシーな香りが、近くでライムの爽やかなそれが混じり合い、余韻が心地よい。二杯目もジンが飲みたくなった。
「次はジントニックを作りましょう」。
それは、前から彼がもっとも得意であると語っていたカクテルである。ずいぶん普通だなと、かえって印象深く覚えていた。
これを使いますと、差し出されたボトルは、ビーフィーターという大衆的なジンで、赤い服を着た紳士に赤のキャップデザインは、どんな酒屋にもある見慣れたもの。
「さきほどの一杯目は、厳選された原料で作られたプレミアムジンでした。こちらのビーフィーターは、イギリスでは気軽に買って家で飲むもっともポピュラーなもの。高級なものは技術がなくてもおいしくできます。ビーフィーターは、わずかな技術の差で、味に大差が出やすい。安いお酒ほど工夫と研究が必要なのです」と教えてくれた。
彼は見習い時代、もっとも私費を投じて研究をしたお酒がビーフィーターだそう。
「編集と同じですね」
私は不意につぶやいた。
初めて出版の世界にとびこんだ最初の四年間、文章のいろはから手取り足取り教えてくれた編集プロダクションのボスを思い出したのだ。企画の視点、見出しの付け方、書き出しと書き終わりの一行の大切さ。教えるのがとびきり上手な人で、社員の多くは陰で、会社を「◯◯学校」とボスの名で呼んでいた。私は編集に関してなんの知識もないド素人だったので、給料をもらいながらこんなに教えてもらっていいのかと、時々申し訳なく思った。
ボスは週刊誌の編集部出身で、口癖が「週刊誌はたかだか二〜三〇〇円で、面白くなければさっさと読み捨てられる。だからこそ、どうしたら読み捨てられないか、人の目や手を留められるか、最後まで読ませられるか、一言一句も気を抜かず工夫を重ねる。だから俺達の仕事は一五〇〇円の人気作家の本を作るより難しいんだ」。
書籍と週刊誌の実際は別として、だからフリーペーパーやチラシの仕事ほど手を抜いてはいけない、研鑽をつめという意味だと理解した。とりわけ必要なのは、企画力だとボスは力説していた。
Tさんは、「本当にそのとおりです。よくわかります。どんな仕事も同じですね」と目を輝かせた。
ステア(比重の違う液体を混ぜ合わせる技法)の止め時、ビルド(グラスに直接材料を注ぐ技法)の加減、氷のカットのしかたなど一杯ずつ条件が違うカクテルを、最高の状態にしあげるための見極めや技術は、一夕一朝では身につかない。
「バーテンダーで食べていこうと決めた、始まりのお酒です」と彼がいうジントニックは、薬草やハーブのわずかな苦味、柑橘の華やかな香りとともに、一日フル回転で働いた細胞や内蔵をいたわるように、静かに体の内側に染みいった。
私は小さな雑居ビルの一室から始まった二五年前の原点を思い返しながら、至福の一杯を楽しんだ。それはたしかに、はじまりの味がした。
文筆家 大平一枝
作家、エッセイスト。長野県生まれ。編集プロダクションを経て1995年独立。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』(誠文堂新光社)、『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)ほか。『東京の台所』(朝日新聞デジタル&w),『そこに定食屋があるかぎり。』(ケイクス)連載中。一男(24歳)一女(20歳)の母。
大平さんのHP「暮らしの柄」
https://kurashi-no-gara.com
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