【金曜エッセイ】先輩と、カレーと、大人の階段
文筆家 大平一枝
第七十一話:カレーと大人の階段
学生時代、女子寮にちょっと個性的な先輩がいた。スリムで背が高く、ボーイッシュなベリーショートがトレードマーク。物静かでいつも本を読んでいる。高校時代から、ずいぶん年上の恋人と長く付き合っているという噂だった。合わせて、家庭の事情で、生活費を切り詰めて大学に通っているという話も伝え聞いていた。
寮はふたり一部屋で、その先輩のルームメイトと、私は同学年で親しかった。
だから部屋に遊びに行くと、先輩とも話したり、ご飯を作ってもらったりした。
先輩は料理や片づけが手早くてうまい。幼い頃から家事手伝いをやってきた人だとひと目で分かる。
あるとき、カレーをごちそうになった。運ばれた皿を見て驚いた。
大きな皮付きじゃがいもがまるまるひとつ、皮を剥いた人参は二分の一本ごろんと入っている。鶏肉の塊はふたつ、三つ。つい何ヶ月か前まで、料理から洗濯、部屋の掃除までなにもかも親まかせだった私は、先輩との圧倒的な人間力の差を感じた。それはどこからどうみても、最高にかっこいい大人のカレーだった。
いまでこそお洒落なカフェや専門店で、野菜がまるごと入ったカレーを見かけるが、田舎から出てきた18歳の私には衝撃だった。しかも皮付きだなんて! 野菜は、幼いときから苦手なのでカレーには小さく切り刻んで、なんだったら見えないくらいにして食べるものだと思っていた。
こんなに大きくては硬いだろうと、じゃがいもに箸を添えると、ホロホロと崩れた。え、なに? ますます目をみはる。
「一時間くらいコトコト煮るだけだよ。玉ねぎだけスライスを先に炒めて煮込んだから、形がないけど」
先輩は微笑んだ。
恐る恐る口に運ぶ。
あれれ。人参ってこんなに甘かったっけ。じゃがいもは口の中で溶ける。
あれはたしかに、私の人生で野菜の滋味を知った最初の出来事だ。コトコト煮るという小説や料理雑誌で見るような言葉を、実際にやっている人にも初めて会った。
ルーは市販のよくあるものだが、醤油を少し混ぜたと聞いた気がする。とにかくとんでもなくおいしくて、衝撃を受けた。
私のことを思って野菜を小さく切ってくれていたであろう母には悪いが、これぞ本物のカレー、大人の階段の一歩目かと妙なところで、自分の巣立ちを実感した。もう私は小さく切らなくても食べられるのだ。
「先輩は最初、どうしてまるごと煮込もうって思いついたんですか」
目を丸くして聞く私に困ったような顔をして、彼女は答えた。
「どうって、このほうがおいしいじゃん。たまに行ってたジャズ喫茶でこういうの出してくれてたんだよね」
コトコト。ジャズ喫茶。まるごと野菜入り。そして年上のコイビト。どれも私の辞書にはない素敵な呪文だ。
一年しか違わないのに、ひどく眩しく見えた。どういう人生を積み重ねてたら、19歳であんなカレーが作れるんだろう。いろいろ聞きたいのに、彼女の部屋に行くとうまく切り出せず、口数の少ない人だったのと学年も違うのとでとうとう聞けずじまいのまま、翌年部屋替えになってしまった。
まもなく先輩と同室だった友達は、音楽事務所に入ると言って大学をやめた。ひとり暮らしを始めたその友達の家に泊まりに行くと、「あの先輩の料理すごかったよね、やること全部かっこよかったよね」と、いつも同じ話をした。
歳月は流れ、とうに学生寮は取り壊されてしまった。いまどきふたり一部屋は流行らないらしい。狭くても個室がいいんだそうだ。
さて私の住む下北沢は何十軒とカレー屋があるが、行列を見ると時々、あの先輩のカレーがなんてったってナンバーワンだよなと思い出す。
「あたしはあの大学や寮は苦手だったけど、部屋の先輩だけには恵まれたなって思う」と言っていた友達も、憧れの先輩も、今ごろどうしているだろう。
以来私は、年齢に関わらず生活体験の豊かな人は旨い料理が作れるという仮説を信じている。あながち間違っていないと思う。
文筆家 大平一枝
長野県生まれ。編集プロダクションを経て1995年独立。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』(誠文堂新光社)、『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)ほか。『東京の台所』(朝日新聞デジタル&w),『そこに定食屋があるかぎり。』(ケイクス)連載中。一男(24歳)一女(20歳)の母。
大平さんのHP「暮らしの柄」
https://kurashi-no-gara.com
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