【金曜エッセイ】信号で駆け出した私が思い出した
文筆家 大平一枝
第七十三話:点滅する青信号が教えてくれたこと
交差点にさしかかると、青色の信号が点滅を始めた。私は駆け出した。横にいた親子連れの母親は、穏やかな表情で、「待とうね」と三歳位の男の子を制していた。
どこにでもある光景だ。
突然、駆け出したいときに駆け出せる自由のありがたさを思った。
私もかつて、弱くて小さな存在のために、何もかもを優先していた期間があった。自分の欲望を抑えるのは別に辛いことではない。親なら誰もがそうであるし、さっきの母親もなんの苦痛もないだろう。
しかし、守り育てた存在が巣立とうとしている今振り返ると、小さい人とふたりきりの時間を孤独に思う瞬間が確実にあった。子煩悩で家事や育児をイーブンにやってくれる夫がいても、昼間の、あるいっとき。あるいはひとりで風呂に入れて夕食から寝かしつけをするとき。締切があるのにぐずって寝てくれないとき。ごく稀に、どうにもやりきれなくなる時の間(ま)があった。
見たいときテレビを見て、好きなときに寝たい。急いでいたら走りたい。バッグひとつで身軽に行動したい。
子どもは命にかえても愛しい存在であることに変わりない。そんな自分でも、母になりたての頃は孤独や不安、とまどった日々があったことを、点滅信号を待つ親子を見るまで忘れていた。
あっという間に子どもは大きくなるとか、いまを楽しんでという言葉を、24時間休みなしの育児の渦中にいると、糧にしきれないときがある。
私はせめて、頑張りきれず折れかけたときがあったことを覚えておこう。
コロナ禍で、育児が辛かったと語る何人かの仕事仲間や取材相手に会った。
自分がなにをできるわけでもないが、気持ちだけは寄り添える人間でありたい。あらゆる立場、年代のひとりでも多くの人が、他者への想像力を膨らませることができたら、世の中は少し変わるのではないか。
二子玉川駅前交差点。点滅する青信号が教えてくれた。
文筆家 大平一枝
長野県生まれ。編集プロダクションを経て1995年独立。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』(誠文堂新光社)、『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)ほか。『東京の台所』(朝日新聞デジタル&w),『そこに定食屋があるかぎり。』(ケイクス)連載中。一男(24歳)一女(20歳)の母。
大平さんのHP「暮らしの柄」
https://kurashi-no-gara.com
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