【金曜エッセイ】手土産の思い出
文筆家 大平一枝
第八十三話:気が付かなかったけれど楽しかった時間
今朝、お世話になっている方に、差し入れ用のシュークリームとケーキを10個買った。白い箱に色とりどりのそれらが美しく収まっていくのをレジ横で見ながら、ああ、家族以外のだれかのためにケーキを買うのは久しぶりだなと思った。
打ち合わせはほとんどオンライン、取材もそれになることが増えた。いきおい減ったのが、“手土産”である。
ある編集者がオンラインの向こうでつぶやいた。
「取材で手土産を買っていくのが楽しみだった。おいしそうだと自分のものを別にちょこっと買って小袋に入れてもらったりして。そんなささやかなことが楽しかったんだなあと、リモートワークになって気が付きました」
そうそう、小袋は私もよくわかる。差し上げる相手のことをうきうきと想像しながら店と品物を選び、会計している間に、自分の分もちょこっと欲しくなって、「領収書別でそのマフィンをふたつください」なんて思わず頼んでしまうのだ。
取材の前日や前々日から、取材に備えてあの人にはどんなものがいいだろう、お菓子を作る人ならいっそ漬物みたいなしょっぱいものがいいかな、いやむしろ菓子に合う紅茶はどうかな、などとなんとなく想いを巡らす。
取材に出るギリギリまで原稿を書いていて時間がないときは、面倒と思うことも正直あった。だが、おいしいものが並ぶ百貨店の地下街や、ネットで評判のあの店、この店にちょっと立ち寄り甘い香りに包まれるあの時間、素敵なラッピングを渡される瞬間は、けっこう至福だった、と今思う。
名店ばかりが素敵な手土産ではない。ある女性編集者とは、いつも朝10時か10時半から私の仕事場で打ち合わせをした。彼女は小学生のお子さんを送り出してから。私は午前打ち合わせにすると、午後執筆に集中できて都合が良いのでその時間になった。
彼女はいつも到着する前に「スターバックスに寄ります。何がいいですか」とショートメールをよこす。わざわざいいよ、うちでコーヒー入れるよというと「いいえ。私も飲みたいので」と気を使わせないよう返信が来る。そしてほかほかのミルクビスケットやスコーンの袋とともに息を切らしてやってくるのだ。
編集、育児、親の介護も重なっていた。のんびりデパ地下で買い物をする余裕などとてもなさそうにみえる人だった。私は彼女の差し入れるカフェオレが、いつも格別旨く感じられた。さりげない精いっぱいが、あの一杯から伝わってきたからだろう。
寒い朝にふたりですするカフェオレに励まされ、その後のブレストが進んだ。彼女にとっても、出勤前の貴重なほっとひと息になっていたらいいのだが。
5年をともにしたその人は別の編集部に異動になり、コロナで送別会ができぬまま1年が経つ。
手土産をもらうのも用意するのも楽しいものだよなあと考えていたら、記憶の隙間に潜り込んでいた思い出を手のひらにすくいとっていた。
彼女は今頃、だれと一杯の手土産をわかちあっているだろうか。
失って初めてわかるもの・ことが、たくさんある。手土産を持って訪ね合い、語り合う時間は永遠に来ないわけではないので、一日も早くそんな時間が来るのを祈って、今はもう少しだけふんばってみたいと思う。10個のケーキを前に気持ちを新たにする3月である。
文筆家 大平一枝
長野県生まれ。編集プロダクションを経て1995年独立。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』(誠文堂新光社)、『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)ほか。『東京の台所』(朝日新聞デジタル&w),『そこに定食屋があるかぎり。』(ケイクス)連載中。一男(24歳)一女(20歳)の母。
大平さんのHP「暮らしの柄」
https://kurashi-no-gara.com
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