【金曜エッセイ】思い出は、ガイドブックからこぼれたところに
文筆家 大平一枝
フランスを旅したとき、有名な寺院やレストランより、パリの路地の名前もわからぬパブで、ジェムソンというどの店にもある大衆的なウイスキーを飲んだことをいちばん覚えているのはなぜだろう。海外へ旅ができなくなって久しいせいか、不意にそんななんでもない記憶が日常の隙間に蘇る。
その店は簡素な作りのなんの変哲もないキオスクのようなパブで、カウンターと小さなテーブルが二つか三つ。事務用かと思うような丸椅子の座面はやや硬い。女性客は一人もおらず、ガラスのドアを開け女友だちと二人で入ると、三、四人いた労働者風のおじさんたちがいっせいにじろっと見る。彼らはすぐに、なんでもないように自分のグラスに視線を戻し、おしゃべりを続けた。壁の上にはテレビがあってサッカーの試合を中継していた。つまみのメニューはなかったように思う。
私達はサッカーを見ながら、おじさんたちが飲んでいるのと同じジェムソンを1杯ずつ飲んだ。よくある角氷で、こだわった入れ方ではないのになんだかやけにおいしかった。
おじさんたちと会話するわけでもない。だが店内は三、四人なので、なんとなく顔を覚えてしまう。あの日あの瞬間、同じ酒を飲みながら小さな空間を共有しているという確かな一体感が、そこにはあった。近所の人達に混じって、一瞬旅人であることを忘れさせてくれるような居心地のいい時間だった。
何年後かに、仕事でアイルランド西部に行った。撮影も取材も自分一人でこなす緊張感に満ちた旅で、夕食は日本人コーディネーターの家でごちそうになる。そのあとは写真の整理や疲労ですぐ床につく毎日であった。
明日で取材も終わりという夜、「今日くらいは1杯行きましょう」とコーディネーターが、その地域で唯一のアイリッシュパブに連れて行ってくれた。
峠の中腹にぽつんとある一軒家。店名は覚えていない。近所のアイルランド民謡愛好家たちが、フィドル(バイオリン)やアコーディオンを持ち寄り、くつろいだ雰囲気の中でセッションをしていた。客は演奏者をぐるりと囲み、みなうまそうにギネスビールを飲みながら聴き入る。客はふらりと立ち寄った順に、輪の外側の席を埋めていく。コーディネーターの彼女は、「ギネスの生ビールはアイルランドのどの店にもあるけど、店ごとにちょっとずつ味が違うんですよ」と教えてくれた。この店は特に評判らしい。
大きな専用グラスになみなみと注がれた黒褐色の液体は、コクが強く、苦味とのバランスが絶妙。そして泡はどこまでもクリーミー。たった一杯だが、人生のベスト3に入るおいしさであった。
仕事の達成感と緊張感がほどけたことも大きいだろう。でもそれ以上に、地元の小さな店で近所の人に混じって地の酒を飲むあの空間と時間が、おいしい記憶の上乗せになっていると思う。
旅の記憶は、ガイドブックからこぼれたところに色濃くにじむ。
もうしばらく。自由に海を渡れるようになるまでもう少しの我慢だ。それまでは思い出のなかの酒場で、ほんのりふんわり酔うとしよう。
長野県生まれ。編集プロダクションを経て1995年独立。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』(誠文堂新光社)、『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)ほか。最新刊は『ただしい暮らし、なんてなかった。』(平凡社)。一男(26歳)一女(22歳)の母。
大平さんのHP「暮らしの柄」
https://kurashi-no-gara.com
photo:安部まゆみ
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