【金曜エッセイ】あることで、ひどく落ち込んでいたときに
文筆家 大平一枝
数年前のある日、深夜まで机に向かう日々が三カ月ほど続いて迎えた朝のことだ。鏡を見たら、ぽっかりと一〇〇円玉大の脱毛症を見つけた。よくここまで気づかなかったものだと驚くほどの大きさで、調べると三箇所もあった。
ショックとともに、自分の体が哀れに思えた。こんなになるまで体の持ち主に気づいてもらえぬとは。締切も大事だ。でも健康より大事なものがあろうか。ひとえに自分のスケジュール管理のなさからくるものなのでよけいに情けなく思った。何度か書いてきたことだが、この世の中、頑張るより頑張らないことのほうがずっと難しい。
歳を重ねると、自分をいたわってやれるのは自分しかいないというあたりまえのことに気づく。
毛が生え揃うのに1年以上かかった。その間、困ったのがインタビュー取材である。隠せない大きさで相手に気を使わせるし、かといって取材中帽子をかぶっているのも失礼だ。
考えた結果、やはりニット帽をかぶり、取材の前に事情を話してお許しいただくということにした。
ところがそう決めた初日。
私よりはるかに多忙なコラムニスト宅の取材で、時間内に終わらせねばといつにも増して緊張をしていた。部屋には私と彼女一人。最初に撮影をして、インタビューに入った。その中盤、はっと気づいたのである。ニット帽の失礼を最初にことわりわすれていた。
「今頃申し訳ありません。室内なのに帽子をかぶったままで。じつは私、円形脱毛症をやりまして、失礼ながらこのままお話を聞かせてください」
彼女はニコっと笑って、立ち上がった。
そして、「私もしょっちゅう。だからこれ必需品」と、地肌につけるヘアファンデーションのボトルを持ってきて見せてくれたのである。
その3日くらい前に私がようやく探し当てておそるおそるネットで買った商品と同じで、私のそれより大きく、そして使い込まれていた。
「こんなサイズがあるんですね」
「年中どこかしら抜けてるから小さいのじゃ足りないのよね」
その後、私はどの取材先でもみなあたたかく、「大丈夫ですよ、気にしないで」と言われたり、「大変でしたね」といたわりの言葉をもらったりした。
ただ、彼女のさりげない行動がとりわけ心にしみて忘れられない。「大丈夫ですよ」の一言でもいいのに、わざわざボトルを取りに行って見せてくれた。あの頃、私はまだショックのなかにいてずいぶん心細い顔をしていたと思う。治るのか。治るならどれくらいの時間がかかるのか。生えても、元通りの毛量にはならないのではないか……。
「自分も同じように悩んであのボトルを探して買い求め、なんとかやっているよ。よくあることだから心配しないで」と言われた気がして、以来あまり気に病まなくなった。よく寝て、タンパク質が豊富なものをよく食べればいつか生えるさ。悩んでいるのは自分だけじゃない、と。
逆の立場で初対面の人間に、彼女のように振る舞えるか自信がないが、そうありたいと願っている。困っている人に手を差し伸べる、というほどおおげさなことではないが、さりげない気遣いに私は確かにあのとき大きく救われた。
この恩はいつか別の誰かに送りたい。
週刊誌で彼女のぴりっと毒の効いたコラムを読むたび、こまやかな気遣いができるからこそ世の中の小さな違和感や矛盾にも気づくのだなと勝手に推測している。きっと外れていないと思う。
長野県生まれ。編集プロダクションを経て1995年独立。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』(誠文堂新光社)、『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)ほか。最新刊は『ただしい暮らし、なんてなかった。』(平凡社)。一男(26歳)一女(22歳)の母。
大平さんのHP「暮らしの柄」
https://kurashi-no-gara.com
photo:安部まゆみ
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