【大きな草原と、青空と】前編:モンゴルの空気は、ハーブの香り

ライター渡辺尚子

ちょっとした時間に空を見上げると、気持ちがほぐれます。雲の形を観察したり、深呼吸をしてみたり。

仕事の合間や家事の途中に眺めるのは、建物の間からのぞく小さな空。こんな小さな空でも、気分が変わるのですから、もっともっと広い空の下で暮らしていたら、どんな心持ちでしょう。

「モンゴルは見渡すかぎり、360度、空と草原なんです」と笑顔で教えてくれたのは、阿比留美帆(あびる みほ)さん。モンゴル文学の研究者で翻訳者です。

モンゴルって、どんな場所なんでしょう。毎日広い空を見ている人たちは、どんなことを考えて暮らしているんでしょう。

わたしが見上げる小さな空の、この先に続いている、広い青空の下で暮らす人たちの毎日を、なんだか知りたくなりました。

 

草原で夏を過ごすと、モンゴルの人は元気になる

モンゴルについてわたしが知っていることは本当に少なく、大草原の国、遊牧民、騎馬や相撲、そのぐらい。でも阿比留さんが話してくださるモンゴルは、みずみずしく、いきいきとしていて、お話の端々から草の香りがしてくるようです。

阿比留さん:
「モンゴルは、空気の香りがいいんです。空港を一歩出ると、乾いた空気に草原のハーブの香りが満ちていて。深呼吸すると、胸の奥までスーッとするんですね。

草原で暮らす遊牧民は、全世帯数の2割弱です。実は都市で暮らす人のほうが多いわけですが、その人達も、夏になると草原を求めて街を出るんですよ。遊牧民の親戚がいる人はそこで過ごし、そうでない人たちも草原でキャンプをしたり、地方旅行をしたり。1か月くらい仕事を休んで草原に行くと、息を吹き返して元気になるんです。

子どもたちも、2か月ほどの夏休みの間は、草原のおじいちゃんのところで牧畜のお手伝いをしたりして、すっかり焼けて逞しくなって帰ってくることも。
みんな草原が大好きなんですね」

遊牧民たちは、馬、ラクダ、牛、羊、ヤギなどと一緒に暮らしています。一か所に定住していると、動物たちがあたりの草を食べ尽くしてしまい、土地が荒れて砂漠化してしまいます。そこで、季節ごとに広い草原を移動し、草と水のよい場所にゲルをたてて生活するのです。

ゲルというのは、組み立て式の(まる)い移動式住居。大家族がぐっすりと眠れるぐらい大きな、居心地のよい住まいです。壁はフェルトに包まれ、足元には絨毯がたっぷりと敷かれています。壁ぎわにぐるりと並んでいるのは、食器棚やベッド、家族の写真など。ゲルの中央にはかまどがあり、その炎で煮炊きしたり、暖をとったりしながら過ごすのだそうです。

遊牧民の暮らしの良さは、身軽なところなのだそうです。

定住していると、ものも気持ちも溜まっていきます。けれども彼らは、牛車やラクダの背に乗る程度の少ない家財道具で、自然のサイクルに合わせて移動します。最近はトラックに荷物をのせて移動する人が多いそうですが、それでも、ものの少なさは変わらないとか。

ちなみに、森で生きる人たちもいます。彼らは標高のたかい山奥の森をトナカイに乗って移動し、オルツ(円錐に組んだ木の骨組みに厚手の布を巻いた住まい)を建てて暮らすのだとか。

阿比留さんも森の民と一緒に旅をしました。トナカイの背にまたがって、ブルーベリーが実る金色の秋の森や、雪に包まれた厳冬の谷間へ。トナカイは大変に人懐こく、その角はやわらかくてあたたかいのだそうです。

 

ほしの栗毛、つきの鹿毛、風のような葦毛

一方、草原の民は、馬を大切にしているそうです。馬は毛色や特徴にあわせて「ほしの栗毛」「つきの鹿毛」「風のような葦毛」などといった名前がつけられています。 「相棒として、特別な思いがこもっているんですね」と、阿比留さん。

ゲルの周りは、見渡す限りの緑と青い空。草原には、羊やヤギの群れが、白雲のように広がっています。もし緑のなかに馬捕りの竿がポンと立っていたら、恋人たちの逢瀬のしるし。人々はふたりの時間を邪魔しないよう近づかない……そんな伝統があったのだそう。

その話を聞きながら、思わず笑顔になってしまいました。というのも、阿比留さんの日本のお家は、馬や羊こそいませんが、雰囲気が似ていたからです。

窓をあけると公園の芝生が見える。お家のなかには壁に沿って本棚が並び、大切な本や写真、モンゴルの友人たちからもらった思い出のもの、食器などが置いてある。キャンプ用の小さなテーブルに出してくださったのは、あたたかい乳茶やアーロール(乾燥チーズ)。

そう伝えると、阿比留さんは「まだ遊牧民ほどは、ものが減らせませんが、お天気のときは芝生の上でピクニックをします」と、ちょっと恥ずかしそうに微笑みました。

 

ずっと胸にしまっていた「学びたい」という気持ち

ずっと学問の道を進んでこられたのかと思ったら、阿比留さんは「そんなことないんです」と言いました。

阿比留さん:
「いろんな事情もあり、高校卒業後は地元の佐賀で働いていました。でもずっと『学びたい』という気持ちは心のどこかにあって。二十代半ばの夏季休暇中、ツアーに参加して、初めてモンゴルを訪れたんですね。そこで、モンゴルと恋に落ちたんです。

とにかくモンゴルのことをもっと知りたい、きちんと学びたいという一心で、独学で、すぐにモンゴル語の勉強を始めました。まだモンゴル語の学習書が一般に手に入りにくかった時代です。最初はモンゴルで買った英語ーモンゴル語の会話帳を書き写しながら、英語で意味を調べて。モンゴル語辞典を手に入れた時は小躍りしました。

2回目の旅で、遊牧民の女の子に『どこから来たの』って尋ねられたんです。地図を見せながら『日本から。あなたはどこか行ってみたいところある?』ってきいたら、その子が、『いいえ。どこにも行きたくない。ここに何でもあるから』と答えたんですよね」

阿比留さん:
「草原しかないと思いがちだけど、ここになんでもあるんだ。満たされているっていうことがすごく不思議だな、と、さらに興味をもちました。

働きながらひたすら独学を続け、お金をためては毎年夏に休みをとってモンゴルに行って。家族は大反対でしたが、もっと学びたいという気持ちは変わらなくて、留学しました」

 

シンプルに生きて、心を軽くする

モンゴルのどんなところに惹かれたのでしょうか。

阿比留さん:
「最初は草原の空気の香りが心に残りました。それから、人です。モンゴルの人たちの、はにかむような笑顔に、どんどん惹かれていきました。

初めての旅で、たまたま出会った人に『うちの扉、いつでもあいているよ』って言われたんです。また来いよ、という意味ですね。

初めて会ったのに懐かしい場所。ああ、私が求めていたのはここだったんだ、と思いました。その後も何度となく、このことばを草原でも街でも聞くことになるのですが」

阿比留さん:
「それまでの日本での私の仕事は、すごくやりがいのあるものだったし、恵まれていたと思うんですよ。ただ、私自身は、働く前から、もっと小さな頃から、息苦しさがあって。

『若いときはみんなそうかもしれないな』と今では思うんですけれど、どう生きていけばいいかわからなくて、生きていること自体に戸惑っているような感覚があった気がします。

周りが、というより、自分自身が壁をつくっていて。あまり人と打ち解けたり、心をひらいたりできない。深く立ち入らないところがあったんですね」

阿比留さん:
「それが、モンゴルの人たちと出会い、関わっていくことで、ちょっとずつ自分が変わっていった。ひとつずつ、壁がとれていった。

生きてるって、こんなシンプルでいいんだな、と。どんどん心が軽くなったんですね。

気づくとモンゴルだけでなく、日本でも同じように、飛び込んでいけば受け入れてくれる、ということを知った。

自分のことを考えるより、もっと夢中になれること、知りたいことが増えていったのかな、と思うんです」

広い空の下で、どんどん息を吹き返していく阿比留さんの姿が、目に浮かぶようでした。

もうひとつ、阿比留さんが惹かれたのがモンゴルの「詩とことば」だそう。後編ではそのお話についてご紹介したいと思います。

 

【写真】井手勇貴(1枚目以外)

 

もくじ

 

 

阿比留美帆(あびる みほ)

モンゴル語通訳者・翻訳者。モンゴルの文学とことばの文化に関心をもち、20代後半からモンゴル国に留学。のべ10年程暮らす。ウランバートル大学大学院にて修士号を取得。在モンゴル国日本大使館専門調査員等を経て、現在は東京外国語大学で非常勤講師(モンゴル近現代文学)をしながら、翻訳と研究を続けている。不定期で「モンゴルの詩をよむ会」などのイベントを開催。共著に『モンゴル文学への誘い』(芝山豊・岡田和行編, 明石書店, 2013)、翻訳書に『みなしごの白い子ラクダ』(古今社, 2005)など。Instagram:@mongol_bungaku


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