【金曜エッセイ】「お風呂をいただきました」(文筆家・大平一枝)
文筆家 大平一枝
第二十四話:「お風呂をいただきました」
『昭和ことば辞典』(ポプラ社)という著書の執筆のため、昭和の暮らしを描いた古い映画から美しいセリフを集めていたとき、しばしばこの言葉に出くわした。
「お風呂、お先にいただきました」
お風呂を “いただく” とは、どういうことだろうと調べると、昔はどの家にも浴槽があったわけではなく、「もらい湯」に行くこともあった。つまり、お風呂を貸し借りしていたのだ。また、薪で炊くお風呂は、いわば贅沢品であり、来客にお風呂を焚いて入ってもらうのは、ごちそうにも次ぐもてなしのひとつでもあったとわかった。
お風呂は貴重だから、“いただく” なのだ。
ずいぶん年配のようで書くのがためらわれるが、じつは私の実家は小学校2年頃まで電話がなかった。父の仕事の関係で長野県内を転々とし、ちょうど松本市に住んでいたときのこと。隣は家族経営のナカガワさんというテーラーで、近所の人も電話を借りに行ったり、自宅の連絡先にしていて「奥さん、電話よー」と呼びに来てもらったりした。
電話を借りる日は、たぶん母が事前に頼んでいたのだと思う。風呂上がりに母と妹とナカガワさんちにお邪魔すると、ミシンや反物や金尺が置かれた広い仕事場で、仕事用の黒電話を貸してくれた。その間、ナカガワさんのおばちゃんは必ず黒いお盆に、バナナミルクセーキを3つ載せ、もってきてくれる。そして、丸椅子に腰掛け、母が電話している間、幼い妹や私の話し相手をしてくれるのだ。
たったいまミキサーに掛けたばかり。その大きなグラスに並々注がれたバナナミルクセーキの、甘くおいしいことと言ったらないのだ。
夜、電話を貸すとなると、ナカガワさんはパジャマに着替えるわけにもいかないし、きっと小さく負担だったろうと思う。それなのに、毎回手製のバナナミルクセーキまで用意して待ってくれているなんて、今では考えられないご近所関係だ。しかも官舎住まいの我が家は、3〜4年で転居するのがわかっている。
長いおつきあいになるわけでもない隣人に、ナカガワさんはいつも本当にあたたかで親切だった。
まもなく、我が家はクリーム色のちょっとおしゃれな電話を買って、バナナミルクセーキを飲む機会はなくなってしまった。
でも、しばらく、我が家にやってきたレースのかかったクリーム色の新しい電話を見るたび、あの甘い飲み物とナカガワさんのおばちゃんの優しさが思い出されてしょうがなかった。
お風呂もきっと同じだ。自宅の一角を人に貸すというのは、面倒も多い。きっと、そのころは夏なら麦茶の一杯を冬なら熱いお茶をふるまったのではなかろうか。借りた人は、お返しに饅頭なんぞをおすそ分けしたかもしれない
「お風呂をいただきました」には、ていねいな感謝の気持ちがつまっている。人より多く持っている人が振る舞い、振る舞われた人は感謝を何らかの形で返していたであろう時代の人の近さが、私にはひどく輝いて見える。
だから私は、昭和の庶民の何でもない路地裏の暮らしを描いたような映画を見るのが大好きなんである。
文筆家 大平一枝
長野県生まれ。編集プロダクションを経て、1995年ライターとして独立。『天然生活』『dancyu』『幻冬舎PLUS』等に執筆。近著に『届かなかった手紙』(角川書店)、『男と女の台所』(平凡社)など。朝日新聞デジタル&Wで『東京の台所』連載中。プライベートでは長男(22歳)と長女(18歳)の母。
▼当店で連載中の大平一枝さんのエッセイが本になりました。
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