【佐藤友子×土門蘭の『なんとか暮らしてます』】02:料理編〈後編〉世界はいろんな人の「過剰」でできている。
文筆家 土門蘭
常にちょっとした生きづらさを抱えながらも「なんとか暮らして」いる、『北欧、暮らしの道具店』店長の佐藤さんと、小説家であるわたし。
『なんとか暮らしています』はそんなふたりが「暮らし」にまつわるさまざまなテーマについて語り合う対談です。
今回のテーマは料理。前編では、いかに自分たちが料理が苦手かを確かめるように語り合い、家事を分類する「三つの箱」の話や、「料理上手」の定義などについて話しました。
後編ではその話をもっと掘り下げて、ではそんな自分たちはどう料理と向き合っていったらいいのかについて考えていきます。
ところであなたは、料理が得意ですか?
料理上手な人は、自己肯定感が高い?
土門:
料理上手な人に憧れるのって、おいしいものを作れるからっていうのももちろんあるんですが、もっと掘り下げると「自分の欲求に正直で敏感だから」なんです。自身の幸福追求度が高いというか。自分を大事にしている感じがしていて「いいな」って思うんですよ。
佐藤:
確かに、料理上手な人って食べることもとても好きな人が多いですよね。何かを食べに行くときも目の輝きが違うもん。
土門:
あの、『孤独のグルメ』って作品がありますよね。主人公の男性が、ひとりで街を歩きながら、その日の気分に合ったおいしいものを食べに行くというストーリーですけど、私はあのドラマを観ていると、この主人公は本当に自己肯定感高いなって思うんですよ。
佐藤:
えっ、あのドラマを観ながらそんなこと考えてるの!?(笑)
私もよく自己肯定感については考えるけど、『孤独のグルメ』とは結び付かなかったなあ。
土門:
私の中では結びついてます(笑)。
主人公の男性はいつも、その時々の自分の調子や気分を的確に把握しようとしているんですよね。今どういうものが食べたいのか、お腹の空き具合はどうなのか、丁寧に自分自身をヒアリングしていく感じ。ここまで自分の内側の声を聞き取って、偶然をも楽しめる力っていうのは、すごいなーって感心するんですよね。
佐藤:
『孤独のグルメ』に、そういう感心のしかたがあったんだねえ(笑)。
土門:
あそこまで自分の幸福追求の優先度を高めることができるのは、見習うべきところだなって思います。料理上手な人はさらにそれを自分で作ってしまうから、本当にすごいなって。
私は普段、家でひとりで仕事をしているので、お昼ご飯はPC見ながら塩にぎりで終わらせちゃうとかよくあるんですよ。食より仕事を優先した結果、餌っぽくなってしまうんです。自分自身の喜びに無頓着なのかなあ……。
だから料理上手な人を見ると、そういう意味でも憧れちゃうんですよね。
「食」よりも「気分」にフォーカスしている私たち
佐藤:
わかる。憧れちゃうよね。でも今聞いていて思ったけど、私たちは私たちで、違うことによって自分を大事にしているんじゃないかな?
土門:
と言うと?
佐藤:
私ももちろん、食べたり飲んだりすることが大好きなんですよ。それ自体が快楽でもある。
だけど、「食べること」が主じゃないんですよね。それに付随するコミュニケーションとか、それによって受ける精神的な刺激などに、より多くの快楽を感じているのかもなって思うんです。そういうものに対しての貪欲さは人一倍あると自覚してるので。
土門:
なるほど。「食べること」自体よりも、それがもたらしてくれる「コミュニケーション」や「インスパイア」が大事という……。
佐藤:
そうそう。だから私も、自分ひとりになった瞬間に、食事が「餌」になってしまうんです。「コミュニケーション」に結び付かないものへの欲が、あまりないんだと思うな。
私、出張に行くとスタッフにがっかりされるんですけど、本当にどこにも行かないんですよ。誰かに誘ってもらわないと、ひとりでずっとホテルの中で過ごしちゃう。
せっかく遠くまで来たんだから現地のおいしいものでも食べに行けばいいのに、スターバックスとかドトールとか、どこにでもあるお店に入ってしまうんですね。知らない土地で知らないお店に行くということが、全然できない。
土門:
ああー、私も同じタイプです。ずっと同じ店に通って、ずっと同じメニュー頼んでる。
佐藤:
だけどそれは、この店のこれがおいしいってわかっているからそうしているんだよね。
それって「食」や「味」よりも、得たい「気分」にフォーカスしているんじゃないかな。知らない場所でパニックにならない、落ちついていられることを重視しているというか。
土門:
本当ですね。その通りだ。
佐藤:
とにかく私は、知らない場所で落ち着きを失ってしまうのが辛いんですよ。だから……あれ、なんか自分がかわいそうな人みたいに思えてきた!
土門:
あはは、私もです。なんだか、かわいそうな人どうしの対談みたいですね(笑)。
佐藤:
そりゃ、料理のレシピ広がらないよね。イレギュラーに弱いんだもん。
土門:
「いつも同じ」が安心するから、レパートリーも少ないんですね。
佐藤:
だから、私の人生には領域を広げてくれる人が必要だって思うんですよ。どんどん外に連れ出してくれる人。例えばうちの編集スタッフには、おいしいものが大好きで好奇心旺盛な人がいるんですけど、彼女は出張のいいパートナーなんです。彼女についていけば、絶対においしいものにありつけるから。そういう存在は、本当にありがたいですよね。
土門:
いいなあ、そういう人になりたいです。
佐藤:
私たちみたいな人間がやれることって何でしょうね?
土門:
あはは。反省会みたいになってきました。
佐藤:
でも、自己否定してても堂々巡りだし、私たちが存在する意味もあると思いたいですよね。
みんなどこかに「過剰さ」がある
土門:
いきなりですけど、「暮らしの中で譲れないこと」って何ですか?
これまで話していて思ったのは、私たちにとってはそれが「食」ではないんだなってことなんですけど。じゃあ逆に、譲れないことって何だろうと。
佐藤:
えっ、暮らしの中で譲れないこと? 何だろう。ぱっと出ないな。待って、ちょっと考える。
土門:
さっきの話だと、私や佐藤さんって、ずっとひとつのお店に通い続けて同じ味を食べ続けたいタイプだったじゃないですか。あれこれ試してみるよりも、自分がしっかり落ち着いていられることのほうがプライオリティーが高い。
私の場合、それが暮らしの中でどう表れるかっていうと、「清潔な寝室」なんですね。夜は必ずそこで本を読んで、気持ちを落ち着けてからじゃないと眠れない。安心できる場所を、毎日確保しておきたいんです。
だから、「清潔な寝室」。それは絶対に譲れないんですよね。
佐藤:
ああ……そういう意味で言うと、私は「物の置き方」にものすごくこだわりがあるってことに最近気がついて。
土門:
「物の置き方」?
佐藤:
会社なんかの共有空間では気にならないんですけど、自分の家に関しては、ベストな物の置き方っていうのがあるんですよね。自分の好きな雑貨があるべき位置にあるっていうのが、私にとってはものすごく大事なんです。
最近、スタッフが商品撮影のためにうちによく来るんですよ。帰るときにはみんな動かしたものを元に戻してくれるんですけど、時々ちゃんと戻ってないことがあって。
昨年、撮影の間私が留守にしていたことがあったんですよ。冬だったので、マフラーとコートを身につけたまま帰ってきたんですね。そうしたら、いつもと家の様子が違う。こっちにあったものがあっちにある。それに気づくと、早く元に戻さないと気がすまないんです。自分の好きなものが正しい住所に置かれていないと、その中ではコートも脱げない(笑)。
土門:
リラックスできないんだ。「物の置き方」が、佐藤さんにとってものすごく大事なことなんですね。
佐藤:
そうなんです。
ちょっと病的かな?って自分でも思うけど、みんなどこかに過剰さっていうのがあると思うんですよね。その過剰さを、これまで私は表に出したくなかったんですよ。「神経質だな」って思われることがすごく嫌だった。
だけど最近は、そういうことが自分にとって「なんとか暮らしていく」精神衛生上、すごく大事なこだわりなんだなってわかったんです。人にとってはどうでも良くても、自分には大事。
その過剰さが、『青葉家のテーブル』っていう作品の美術をつくっていった過程においても出ているような気がするんですよ。そこまでしなくても作品の良し悪しってそんなに変わらないかもしれないけれど。
でもその過剰さを公表して、何かに活かしていくしかないなって、この数ヶ月思い立ったんですよね。
凹みを均すことは、自分らしさを消すこと
土門:
佐藤さんと同じ時期にスランプに陥っていたからかもしれないんですけど、最近、私も同じようなことを考えていたんです。
この春は調子が悪かったとはじめに言いましたが、私はずっと、自分の情緒不安定に悩んできたんですね。季節や気圧の変わり目に影響されたり、誰かのひとことや表情がすごく気になったり、外部の刺激にとにかく弱くって。
だからその弱点をなんとかしようとして、自分の気持ちを言語化して頭の中で整理して、文章にすることをしてきたんですよね。情緒不安定だからこそ、結果的に「書く」ということにつながっている。そして今それが、幸運なことに仕事になっているんです。
佐藤:
はい、はい。
土門:
たぶん、どこかが過剰だということは、どこかが不足しているということなんです。むしろ、ある部分が凹んでいるからこそ、ある部分が出っ張っていられるというか。
だからその凹んでいる側を否定しすぎるのはよくないんじゃないかなって思ったんです。隠そうとしたり直そうとするのって、自分の出っ張りや凹みを均していくことじゃないですか。それって自分らしさを消すことなので、もったいないなって。
なので、出っ張りも凹みも両方公表していったらいいんじゃないかなって私も思います。「土門はこういう人だからね」って思ってもらえたらそれが一番楽だなって。
佐藤:
そうですよね。
そして私も土門さんも、凹んでいる部分に「料理」というものがあるような気がするんです。だけど逆に、出っ張っている部分に「料理」がある人もいる。私が物の置き方にこだわるように、料理の領域でこだわりを発揮する人だっているわけですよね。それは、リスペクトに値する過剰さなわけです。
最近、いろんな人の過剰で世界ってできているんだなって思っていて。他人から見たら「どっちでもいいじゃん」ってことが、その人にとってはどっちでも良くない。それを認め合うことから始まるなっていう。
土門:
誰かの不足を誰かの過剰が埋めているみたいな、そうやって世界はまわっているんですよね、たぶん。
佐藤:
そうです、そうです。
土門:
自分の不足部分をなくそうとしても、無理した結果誰かの仕事をなくすだけだったりするので……。つまり、わたしたちはこれでいいってことですかね?
佐藤:
あはは、そうそう。いやあ、ざっくりとまとめたね!(笑)
土門:
「料理が苦手でも、料理上手な人に任せたらいいんだ!」みたいな。
佐藤:
自分の過剰さと付き合っていく選択肢のひとつとして「諦める」ってことがあるんじゃないかなって思うんですよ。そして、それを補ってくれるのがコミュニケーションや出会いなんだと思います。
「なんとか暮らして」いくためには、自分が譲れないことを知るっていうことと、譲れることに関しては諦めるということ。そしてその、自分が諦めている部分に対して諦めていない人との出会いをすることかなって思います。
都合良く解釈する「料理上手」の定義
佐藤:
それが人じゃなくてもいいんですよ。たとえばすごくおいしい調味料とかね。かけるだけでおいしい塩とか、肉と野菜を炒めるだけでおいしい焼肉だれとか。
あとはワンランク上の素材に頼ってみるとか。お肉だって、量り売りで買うちょっと高級なお肉はやっぱりおいしいですよね。それを使うだけで、いつもの味とは全然変わってくる。
土門:
料理にかける手間を、調味料や食材に任せてしまうってことですね。そうやって、人でも調味料でも食材でも、自分の味方を増やしていけばいいってことなのか。自分の不足を補ってくれるメンバーを集めて、オールスターチームを作るっていうか(笑)。助けてもらえばいいんだ、自分以外のものに。
佐藤:
そうそう。任せちゃうの。
土門:
ああ、そう考えると、「料理上手」って「調理が上手」ってことだけじゃないのかもしれないですね。セレクトする力だったり、甘える力であったり、そういうのももしかしたら広義での「料理上手」なのかもしれないですよね?
佐藤:
そうそう。逆に、料理以外の舞台に行けば、うちらみたいな人がスタメンとして呼ばれることもあるかもしれないじゃないですか。だからそれまではとにかくベンチを温めながら、出番が来て輝くのを待つっていうか。
土門:
うわー、コペルニクス的転回だ。本当ですね。自分が無理しなくても、誰かを引き抜けばいいんですよね。うちの台所に。
佐藤:
それで「料理上手」だって、自分の都合の良いように解釈していけばいいんですよ。おいしい岩塩をきゅっきゅって振りかける自分に酔いしれて、気分を上げていったらいい(笑)。
「料理が得意だったらどんなにいいだろう」とは思うけど、こんなふうに生まれた自分の感情を、否定しないで何かに転換していくことができたらいいですよね。
土門:
本当ですね。そうやって新しい解釈で「料理上手」になったらいいんだ。なんだか、気持ちが楽になりました。今日からそうやって、またなんとか暮らしていこうと思います(笑)。
対談が終わりに差し掛かったころ、ずっとふたりの会話を聞いていた編集スタッフの津田さんが、こんなことをぽろっとつぶやきました。
「『料理が苦手で辛い』っていう考え方自体、もしかしたら自己中心的なのかもしれませんね」
それを聞いたわたしたちは、「えー!?」「私たち、自己中なの!?」と大変衝撃を受けたのです。
「だって、もっと頼ったらいいんですよ。誰かに頼れば無理しないでもおいしいものが食べられるのに、『私は苦手だ』ってひとりで落ち込んでいる姿は寂しいです。苦手な部分は補い合って、一緒に生きていこうよって思いました」
確かに彼女の言う通り、苦手なことに落ち込んだり劣等感を覚えたりするのは、「頑張れば自分ひとりでできるはずなのに」と思っていることの裏返しなのかもしれません。わたしが「なるほど、確かに自己中かもしれない」と思っている一方で、佐藤さんはどうも納得のいかない顔をしていましたが。
過剰だったり、不足していたり、わたしたちはひとりひとり違うかたちをしています。まるでパズルのピースのように、お互いの欠けているところを補い合って、「世界」というひとつの大きな絵は作られているのかもしれません。
わたしたちは一個のピースとしては不完全かもしれないけれど、誰かとの出会いがそれを完全に近づけてくれる。今回、「料理」というふたりの苦手なものを語り合うことでそんな答えにたどり着きました。
いつか誰かと大きな絵を描くために、今日もなんとか暮らしていきましょう。
それでは佐藤さん、またお話しましょうね。
(おわり)
【写真】 片岡杏子
もくじ
土門蘭
1985年広島生。小説家。京都在住。ウェブ制作会社でライター・ディレクターとして勤務後、2017年、出版業・執筆業を行う合同会社文鳥社を設立。小説・短歌等の文芸作品を執筆する傍ら、インタビュー記事のライティングやコピーライティングなどを行う。共著に『100年後あなたもわたしもいない日に』(京都文鳥社)。今夏、『経営者の孤独。』(ポプラ社)と『戦争と五人の女』(京都文鳥社)を刊行予定。
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