【57577の宝箱】湖は液状の空あおあおと ぐるりが満たされ鳥になる夢
文筆家 土門蘭
昔から、休むのが下手だ。
「リラックス」とか「リフレッシュ」とかどういうふうにするのかわからず、休みの日にも何かとせかせか働いてしまう。それで疲れがとれるのなら問題ないのだけど、日に日に疲れが溜まっていく。もう若くないしそんなものなのかなぁと、なかば「休む」のを諦めていた。
そんなわたしにとって、休みの日は平日にできなかった雑務を片付ける日だ。
疲れが溜まっているので外に出かけるのも億劫だし、だからと言って性格的に家でゴロゴロすることもできない。それならなるべく体力を温存しながら、平日の負荷を減らすことをしよう……そんな、実用的かつ消極的な選択によって、「休日は家で雑務」が定着していた。まるで「準平日」みたいな日が、わたしにとっての休日だったのだ。
§
だけど、子供たちはそうはいかない。
8歳と3歳の息子たちにとって、休日はぴかぴかした心躍る日だ。部屋着のままこつこつとレシートや書類を整理するわたしに、子供たちは「どこかに行こうよ!」と話しかけてくる。
そのたび近所の公園や図書館などに行ってごまかしてきたけれど、夏休みが終わる一週間前、さすがにどこか特別な場所に連れていってやりたいと思い、いろいろ考えた結果、琵琶湖に出かけることにした。
琵琶湖ならうちから電車で30分圏内だし、出不精のわたしでも行きやすい。それに京都生まれ京都育ちで、大きな海や湖をあまり見たことがない子供たちに、日本一大きな湖を見せてやりたかった。
そう考えると、なんだかワクワクしてきた。
わたしたちは慣れない荷造りをして、「明日楽しみだね」と言って眠りについた。そう言えば、こんなふうに用事もなく純粋に遊びに行くのって久しぶりだな、と思いながら。
§
駅を降りると、すぐそこに真っ青な琵琶湖が広がっていた。
「見て、琵琶湖!」
わたしが言うと、子供たちが「うわー」と声をあげる。驚いたのは、誰よりも先にわたしが駆け出していたことだ。いつもならのろのろと子供たちのあとを行くのに、このときには自然と笑顔が浮かんで、足取り軽く琵琶湖へ向かっていた。
そんな自分に内心驚きながらも、「そうか、自分は海辺で育ったもんな」と納得する。
わたしは18歳まで、広島の瀬戸内海沿岸の街で生まれ育ったので、毎日のように海を見ていた。琵琶湖は海よりも穏やかで波もなく、潮の香りもしないけれど、それでも「懐かしい」と思った。こんなふうにたっぷりとした水を眺めるのが、わたしは子供の頃から大好きだったのだ。今まで忘れていたけれど。
§
泊まったホテルでは、部屋からも大浴場からも琵琶湖を望むことができた。太陽の動きによって湖面が色を変えていくのを、飽きることなく眺める。きれいものを、ただ「きれいだな」と思いながらこんなに存分に眺めるだなんていつぶりだろう。
午後6時、露天風呂で琵琶湖を眺めながら、いつもならこの時間は何をしているかなと考えた。仕事を終わらせて、洗濯物を取り込んで、冷蔵庫のありものでご飯を作って、子供たちに「宿題したの?」とか「おもちゃ片付けて」と口うるさく言って……。
それが今のわたしは、夕暮れ空のもとお風呂につかって「きれいだなぁ」ばかりつぶやいている。そうできる場所に、自分でやってきたのだ。
「はー、生きててよかった」
誰もいない露天風呂で、つい能天気な声が出た。
広々と満ち満ちた琵琶湖の姿に、心がどんどんほぐされ、柔らかくなっていく。
§
翌日は、琵琶湖を周遊する遊覧船に乗った。
通路から下を覗き込むと、すぐそこに湖面がある。足元の大量の水をかき分けながら船がどんどん進んでいき、あっという間にわたしたちは琵琶湖の中腹へと来た。
スカイデッキに出ると、風が顔いっぱいにぶつかってくる。目の前は青い空と青い湖以外、なんにもない。船の先で、映画『タイタニック』の名シーンのように両腕を広げてみると、安全な場所にいるのに思いのほかこわくて、足元がすくんでお腹がすうすうした。
まるで、このまま飛んでしまうみたい。
わたしはそのあまりの解放感に、思わず笑ってしまう。
これまでわたしは、動いたり出かけたりすると疲れるものだと思っていた。だからずっと家にこもって、平日の体力を削らないようにけちけちしていた。
でも今、船の上で空と湖の境目に身を置きながら、どんどん身体が軽くなっていくのを感じている。自分が小さく儚く感じ、それでいてどこまでも伸び、溶けていくような感じでもあった。
「休む」ってこういうことだったのか、と身をもって知った気がした。
わたしはこんなに水が大好きで、水を見ると癒される。昔好きだったものは今でも身体に根付いていて、心の内側から自分を若々しく蘇らせてくれる。
純粋に好きなものに会いに行くこと、そこに身を置くこと。
そういうことがきっと、「休む」ということだったのだ。
§
「楽しかったね、また来よう」
旅行の帰りにわたしが言うと、長男が驚いたような顔をした。
「お母さん、なんだか元気そう」
そうだよ、お母さんは休み方がやっとわかったんだ。
君たちみたいにぴかぴかと心躍る休日を、これからは迎えられそうだよ。
その日、わたしは久しぶりに電車の中で居眠りをした。
私たちの日々には、どんな言葉が溢れているでしょう。美しい景色をそっとカメラにおさめるように。ハッとする言葉を手帳に書き留めるように。この連載で「大切な言葉」に出会えたら、それをスマホのスクリーンショットに残してみませんか。
1985年広島生まれ。小説家。京都在住。小説、短歌、エッセイなどの文芸作品や、インタビュー記事を執筆する。著書に歌画集『100年後あなたもわたしもいない日に』、インタビュー集『経営者の孤独。』、小説『戦争と五人の女』がある。
1981年神奈川県生まれ。東京造形大学卒。千葉県在住。35歳の時、グラフィックデザイナーから写真家へ転身。日常や旅先で写真撮影をする傍ら、雑誌や広告などの撮影を行う。
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