【57577の宝箱】両胸の間に泉を持っている こんこん湧き出るあたたかな音
文筆家 土門蘭
年末にはいつも、「いろいろあった一年だったな」と思う。
1日単位では「今日もまた昨日とおんなじような日だった」と感じるのに、1年単位では「いろいろあった」と感じるのが、いつも不思議だ。
渦中にあるときは1歩進むことで精一杯だけど、365日経てば365歩進んでいることになる。もちろん1歩も進めなかったり、むしろ後退してしまう日だってあるけれど、それでもわたしたちは同じ道は決して歩まず、新しい軌跡を描いている。
年末にはその軌跡を振り返るから、「いろいろあった」と思うのだろう。
§
2020年もまた、いろいろあった一年だった。
そして静かな年でもあった。コロナでイベントや出張などがなくなり、家の中で過ごすことが多くなったからだと思う。
決まっていた予定や仕事がなくなるたび、ぷちぷちと音をたてて人とのつながりがなくなるような気がした。フリーランスで物書きをしている身としては、うすら寒くなる思いだった。家の中にひとり取り残されてしまうような。きっと多くの人がそんなふうに感じていたのだろうと、今では思えるのだけど。
不安になったり落ち込んだりしたものの、自分がどうにかできることでもないなと、じきに諦めがついた。いま自分の外側で起きていることは予測不可能だし、一喜一憂していては身がもたない。それじゃどうしようと考え、「そうだ、今年はじっくり自分と向き合う年にしよう」と決めたのだった。
身体や心を整え、また外でみんなと会えるようになったときに、元気に笑っていられるようにしよう。そう考えると、この状況も前向きに捉えることができた。なんとか1歩でも進もうと、必死だったのだと思う。
§
それで始めたことのひとつが、ヨガだった。
友人が「姿勢が良くなって、集中力が高まるよ」と勧めてくれたのがきっかけだ。身体と心を整えるのにぴったりだと思っていたら、ちょうど同時期に知り合った方がヨガ教室をしていることを知った。「朝のヨガのオンライン配信をしているので、よかったら」と言われ、まるで導かれるように始めることになった。
配信は朝6時半から。いつもなら目が覚めても、ベッドの上でゴロゴロとスマートフォンを見たりしているのだけど、がんばって起きる。
寒いのでカーディガンを羽織り白湯を飲みながら、パソコンを開いてアクセスする。インストラクターさんの心地よく低い声が、耳に届く。
初め驚いたのは、インストラクターさんの言葉の豊かさだった。ひとつひとつの動作を説明するため、彼女は丁寧に言葉を発する。ちがう場所でちがう身体を持つわたしたちが、極力同じ気持ち良さを感じるように、イメージしやすい言葉で話してくれる。
たとえば、「心臓を空に差し出すように胸を開いて」とか。
「遠くの空気に触るように両腕をまわして」「熱々のトーストの上でバターが溶けるように、床に全体重を染み込ませて」とか。
単に動作指示が出されるよりもずっと想像しやすくなって、身体全体が柔らかくなる。言葉によって自分の身体がこんなに変わるのかと、びっくりする体験だった。
30分ほど身体を動かしたあとは、いつも最後に仰向けになって深呼吸をする。
「外側に向いていた矢印を、ゆっくり内側に向けてみましょう」
声に耳を澄ませながら、言われた通りイメージする。多方面に向かっていた矢印の先がこちらを向いて、皮膚の内側に入っていく感じだ。
あるとき、その矢印が全部染み込んでいったと同時に、かすかに自分の心臓の音が聴こえた。小さく鼓動を打つその音は、久しく聴いていない温かな音だった。
「リラックスや安心は、すべて自分の中にあるということを感じてください」
そう言われた瞬間、胸の奥がふわっと温かくなる。まるで温泉が湧くように。
それはとても安らかな感覚で、「ああ、ここにあったのか」と思った。
リラックスも安心も、今まで外側にあるのだと思い込んでいた。他人の言動に一喜一憂しながら、すがりつける確かなものを探していた。
だけど本当は、確かなものはこの胸の奥にあったのだ。
今も心臓が新鮮な血液を押し出し、わたしの全身を巡って温めている。生きているという事実は、こんなにも確かで温かい。
§
静かだった朝が、次第に音を取り戻し時間が流れ始める。朝はやることが多くあって慌ただしい。
それでも胸の中は穏やかだった。温かな泉が湧いたまま、内側からわたしを癒してくれているような。
「リラックスや安心は、すべて自分の中にある」
わたしはもう一度、その言葉を胸の中で繰り返す。
予測不可能な社会の中で、わたしが得たかったのはこの感覚だったんだ。そう思い、忘れぬようにと。
これから新しい1年が始まる。今年はいったいどんな年になるだろう。
やっぱりいろいろあって、泣いたり怒ったり、落ち込んだりするんだろうか。
だけど大丈夫。怖がらずに、一歩を踏み出し続けよう。
確かなものは、いつだってわたしの中にあるのだから。
私たちの日々には、どんな言葉が溢れているでしょう。美しい景色をそっとカメラにおさめるように。ハッとする言葉を手帳に書き留めるように。この連載で「大切な言葉」に出会えたら、それをスマホのスクリーンショットに残してみませんか。
1985年広島生まれ。小説家。京都在住。小説、短歌、エッセイなどの文芸作品や、インタビュー記事を執筆する。著書に歌画集『100年後あなたもわたしもいない日に』、インタビュー集『経営者の孤独。』、小説『戦争と五人の女』がある。
1981年神奈川県生まれ。東京造形大学卒。千葉県在住。35歳の時、グラフィックデザイナーから写真家へ転身。日常や旅先で写真撮影をする傍ら、雑誌や広告などの撮影を行う。
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