【57577の宝箱】夢描けぬ日はいつか描く日のために 色鉛筆を静かに削る

小説家 土門蘭


嫌なことや辛いことがあったとき、みんなどんなふうにそれを紛らわせようとするのだろう。

ある友人はストレスが溜まると、やけ食いをすると言っていた。またある友人は深酒をすると。下戸の友人はひたすら眠ると言っていたし、おしゃれ好きな友人は気に入りのショップで買い物をすると言っていた。

じゃあわたしはどうかと言うと、困ったことにストレス解消の方法を持っていない。
なぜかというと、嫌なことや辛いことに遭遇したとき、心が疲れきってしまうのか、一切の欲が出てこなくなってしまうタイプなのだ。

食べたいものがない、欲しいものがない、行きたいところがない、会いたい人がいない。
じゃあ寝ればいいのでは、と思うのだが、そういうときに限って睡眠欲も出てきてくれない。目はぱっちり開いたまま、「嫌だなぁ」「辛いなぁ」とめそめそしている。

どうやらわたしの「元気」とは、ほぼ「欲」と同義であるらしい。元気がなくなると欲もなくなる。逆に言えば、欲があるときは元気なときだ。欲を持つというのも体力がいることなのだろうだな、と思う。

§

つい最近、とても落ち込んだ日があった。
特に大きな事件が起きたわけではないのだけど、いろいろと良くないことが続いてしまった。何をどうすれば解決できる、というものでもないので、ただ時間をかけて自分のメンタルが回復するのを待つしかない。でも例によって、わたしには気を紛らわす手段がなかった。元気と一緒に、欲も消え失せてしまっていたのだ。

それは、五月のある休みの日のことだった。せっかくの休みなのに、出かけないなんてもったいないよなぁと思いつつも、どうしても行きたい場所や食べたいものが思いつかない。家族には、わたしのことは気にせず出かけてほしいとお願いし、わたしは一人家にこもっていた。映画でも観ようか、本でも読もうか、と思うのだが、何の作品を観たり読んだりすればいいのかもわからない。だからと言ってぼんやりしていては、また辛いことを思い出してしまう。

これではいけない。そう思って、わたしはダイニングテーブルの上でパソコンを開き、溜め込んでいた領収証をざっと広げた。
「確定申告の準備をしよう!」
今年の確定申告はまだまださきだが、わたしは領収証をバリバリと仕分けし、経理ソフトに次々と入力していった。

今やりたいことがなければ、いつかやらなくちゃいけないことをやればいい。いつかやりたいことができた日のわたしのために、今を使ってあげるのだ。そんなことを思いながら。

§

大学1年生のとき、「哲学」という授業をとっていたことがある。とても話のおもしろい先生で、わたしはその授業が大好きだった。その授業の中で今も覚えている言葉がある。
「人生は『want』と『must』でできている」
という、先生の言葉だ。

「『〜したいからする』か、『〜しなくちゃいけないからする』。私たちの行動は、ほとんどこのふたつで成り立っています。真面目な人ほど『must』の方を優先しがちなんだけど、私はどうせなら一度の人生、『want』の割合を増やしていく方がいいんじゃないかと思うんですよね」

だってそっちの方が楽しそうでしょう?と笑う先生の話を聞きながら、わたしはうんうんと頷いていた。可能な限り「want」から来る行動で人生を埋め尽くしたいよね、と。その頃はまだ思いもしなかったのだ。まさか自分に「want」が感じられないときが来るなんて。体力の有り余っていたわたしには、「must」なんて面倒くさいばかりで、「want」こそが人生の醍醐味だった。

領収証を一枚一枚ファイルに留めながら、そんなことを思い出した。
今のわたしがあのときのわたしに会ったなら、教えてあげたいなと思う。「want」を思い描く元気すらない日には、「must」に支えられるんだよ、と。

黙々と手を動かしていたら、いつの間にか夕方になっていた。
目の前には、きっちりと整理された領収証のファイルと、入力が完了したパソコンの画面が並んでいる。わたしは満足してそれらを閉じて椅子から立ち上がり、思い切り背伸びをした。
「ちょっとお腹空いてきたなぁ」
そう独り言を言いながら。

§

もう少し日にちが経てば、きっとわたしはまた元気になっているだろう。
食べたいもの、欲しいもの、行きたいところ、会いたい人が、思い描けるようになっているだろう。

その日のわたしの「want」の時間のために、「must」を先取りしてあげた休日。きっと、未来のわたしは今日のわたしに感謝するはずだ。そう思うと、なかなか良い一日だったなぁと思うのだ。

そろそろ家族が帰ってくる。
お腹を空かせた息子たちの「want」を叶えてあげて、今日という日を締めくくろうか。

 

“ 夢描けぬ日はいつか描く日のために色鉛筆を静かに削る ”

 

1985年広島生まれ。小説家。京都在住。小説、短歌、エッセイなどの文芸作品や、インタビュー記事を執筆する。著書に歌画集『100年後あなたもわたしもいない日に』、インタビュー集『経営者の孤独。』、小説『戦争と五人の女』がある。

 

1981年神奈川県生まれ。東京造形大学卒。千葉県在住。35歳の時、グラフィックデザイナーから写真家へ転身。日常や旅先で写真撮影をする傍ら、雑誌や広告などの撮影を行う。

 

私たちの日々には、どんな言葉が溢れているでしょう。美しい景色をそっとカメラにおさめるように。ハッとする言葉を手帳に書き留めるように。この連載で「大切な言葉」に出会えたら、それをスマホのスクリーンショットに残してみませんか。

 


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