【読書日記|本から顔をあげると、夜が】第二回:聖地巡礼

穂村 弘

X月X日

 横浜の中華街に出かけた。新型コロナウイルスのせいで家にずっと籠っていたので、ずいぶん久しぶりだ。と云いつつ、平常時でも訪れるのはせいぜい年に二、三度だった。そのために、なかなかお店の名前と場所を覚えることができない。なにしろ、見渡す限りすべて中華料理店なのだ。前に入っておいしいと思ったお店がどこだったのか、次に来た時はもうわからなくなっている。無数の選択肢を前にして、毎回、どこに入ろうかな、と迷ってしまうのだ。
 でも、今日は違う。目的のお店の名前も場所もわかっている。それどころか、注文する料理さえ決まっている。それには理由があった。

 二日後、私と御手洗と藤谷は、中華街の中途、市場通りを少し入ったところにある翠香苑という中華料理屋で落ち合った。御手洗が、この店の「挽肉のレタス包み」が好物だからである。

『眩暈』(島田荘司)

 新本格ミステリーの旗手島田荘司による御手洗潔シリーズの一冊を読んでいて、こんな記述に出会ったのだ。おっ、と思って頁の端を折った。エキセントリックな天才探偵御手洗潔が食べ物に関心を示すのは珍しい。

 御手洗という男は、(略)なにかに夢中になると、ちっとも眠ろうとしないし、不摂生は桁はずれだが、食生活は質素なものだった。美食にはいっさい興味を示さず、深酒など一度もしたことがない。キャビアと上等のワインがなくては不機嫌というヨーロッパの犯罪研究家の話をよく聞くが、御手洗はパンと紅茶があればそれで上機嫌だった。

『水晶のピラミッド』(島田荘司)

 そんな彼の「好物」とまで云われる「挽肉のレタス包み」、いったいどんな料理だろう。ぜひ、食べてみたい。というわけで、聖地巡礼を思い立ったのである。いつもの中華街とはどこかが違っている。目の前の風景が輝いて見えた。
 実際に訪れてみると、正確な店名は翠香園で、料理の名前も「うずら肉の炒めレタス包み」だった。たぶん、作中ではわざと変えているのだろう。御手洗潔の「好物」はとてもおいしかった。ねっとりした挽肉がレタスとよく合っていて。でも、それ以上に、小説の登場人物と同じものを食べたというわくわく感と満足感が大きかった。
 なにしろ『眩暈』の初版が刊行されたのは一九九二年、つまり三十年も前なのだ。お店が閉店していたり、肝心のメニューがなくなっていたり、という可能性もないとは云えない。そうなったら、「挽肉のレタス包み」って、いったいどんな料理なんだろう、食べてみたかったなあ、といつまでも憧れ続けるしかないところだった。目的が達成できて本当によかった。

 

X月X日

 散歩の途中で、公園の中に奇妙な建物を発見した。白くて丸くて、大きな卵かキノコのようだ。不思議に思って近づくと、どうやらトイレらしい。恰好いいなあ。
 中に入ってみると、壁面に説明の文字が書かれている。なんでも「はい、トイレ!」と話しかけると、トイレが覚醒(?)して、あとは声による指示に従って、水を流したり、止めたり、なんでもやってくれるとのこと。つまり、手を使わなくてもいいトイレなのだ。感心して、早速「はい、トイレ!」と呼びかけてみた。
 でも、何も起こらない。声が小さかったかな、と思いつつ、「はい、トイレ!」と叫んでみる。やっぱり駄目だ。訛ってるのかなあ、と自信がなくなってくる。いろいろな云い方で五、六回試してみたけれど、トイレはどうしても目覚めてくれない。やってみてわかったけど、一人で「はい、トイレ!」と叫び続けるのは、けっこう難しいというか恥ずかしい。諦めて、手で水を流した。

 

X月X日

 ソフィア・コッポラ監督の映画『ヴァージン・スーサイズ』をやっと見た。美しかった。原作の邦訳本である『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』(ジェフリー・ユージェニデス、佐々田雅子訳)は、ずいぶん昔に読んでいる。とても良かったし、映画も素晴らしいと聞いていたから、見よう見ようと思っているうちに十数年も経ってしまったのだ。本に較べて、映画となると急に腰が重くなってしまうのは、どうしてなんだろう。宿題を一つ減らした気分だ。

 ぼくらはセシリアと一緒に種痘の列に並び、ポリオワクチンの角砂糖をなめた。セシリアに縄跳びや蛇に火をつける悪戯を教え、かさぶたを剥がそうとするのを何度となくやめさせ、スリーマイル公園の水飲み器に直接口をつけないように注意した。ぼくらの中にはセシリアに恋した者もいなくはなかったが、変わり者だとわかっていたので、その気持ちは自分の胸の内におさめていた。

『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』

 原作の背景が70年代のデトロイトというのがポイントになっている。少女たちの死と彼女たちに憧れた少年たちの青春の終わりが、荒廃してゆく都市の空気感と重なるように描かれている。時代への透明な鎮魂歌のような傑作。
 では、翻って自分たちの生きた時代と街はどうだったのか。私は岡崎京子の代表作『リバーズ・エッジ』のことをふと思い出した。あのひりひりした空気感をたまらなく懐かしいものと感じるのは限られた世代だろうか。いや、 『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』と同様に、あの作品にももっとも死に近づく季節としての青春の普遍性があるように思う。

 惨劇が起こる。
 しかし、それはよくあること。よく起こりえること。チューリップの花びらが散るように。むしろ、穏やかに起こる。ごらん、窓の外を。全てのことが起こりうるのを。

『リバーズ・エッジ』の「あとがき」より


1962年北海道生まれ。歌人。1990年歌集『シンジケート』でデビュー。詩歌、評論、エッセイ、絵本、翻訳など幅広いジャンルで活躍中。著書に『本当はちがうんだ日記』『世界音痴』『君がいない夜のごはん』他。

 

1981年神奈川県生まれ。東京造形大学卒。千葉県在住。35歳の時、グラフィックデザイナーから写真家へ転身。日常や旅先で写真撮影をする傍ら、雑誌や広告などの撮影を行う。

 

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