【歳を重ねて始めたこと】前編:50代から60代へ。肩書きが変わって、身軽になって
ライター渡辺尚子
たとえば習い事を始めたり、新しい習慣を身につけたり。そんな小さな変化が、生きていく力になるのかもしれないな。最近、そう思うようになりました。
歳を重ねれば重ねるほど、大きなライフシフトは難しくなります。でも、大きな転機がなくても、よりよく生きていくことはできるのではないかな…。
そんなことをぽろりと口にしたところ、「それ、まさに私が最近実感していることです」と言ってくれたのが、花の仕事をしている井出綾(いで あや)さんでした。
井出さんが60歳を目前に始めたささやかな一歩とは、どんなことだったのでしょうか。
60回目の誕生日も、花と一緒に自然体で
井出綾さんは、花のお仕事を30年間以上続けています。
わたしがはじめてお会いしたのは、25年ほど前のこと。そのとき井出さんは、プランツスタイリストのお仕事をなさっていました。
華やかな花に人気の集まる時代でしたが、井出さんが目をとめるのはいつも、可憐な小花や爽やかな緑。なんて自然で素敵なのだろうと思ったものです。
60歳になったいま、井出さんの肩書きには「花手」が加わっています。
花の職業といえば、よく聞くのはフローリストとか、花人とか。花手は、井出さんが自分で考えた肩書きです。
井出さん:
「手っていいな、と思っていて。歌い手を歌手というように、私も歌うように踊るように、花を生けたいと思ってつけました」
自分の肩書きは自分でつける…ささやかなアクションですが、気持ちがあらたになるし、自分がこれからどうなりたいのかも見えてきそうです。
だんだんと、体力気力が変化してきて
体調の変化に気がついたのは、50代半ばごろからだそうです。
井出さん:
「生まれた時から股関節脱臼をもっていて、下半身に負荷のかかる動きやスポーツはあまり出来ない状態だったのですが、それでも、好きなことをして生きてきました。
けれどもだんだんと歩行が厳しくなって、55歳のときに手術をしたんです。
その頃からでしょうか、無理が効かなくなってきました。
睡眠が足りないだけでも風邪をひいたり、腰が痛くなったり、怪我も増えたりして。
体って正直ですね。体が弱ってきたら、今度はだんだんと気持ちが弱ってきて、どうしよう…となってきたんです」
体力気力の変化、わたしも最近実感しています。これからどうなるんだろうと、途方にくれることも、じつはしばしば…。
けれども、そんななかで井出さんは、今後どうしたいかをじっくり考えてみたのだそう。
シフトチェンジしなくても、今いる場所で幸せに暮らす
井出さん:
「60歳を目前に、ようやく自分中心の生活を考える余裕が生まれたんですね。子どもも独立したし、仕事のペースも落ち着いてきて。
若い頃は、大きなシフトチェンジを夢見たりもしたんですよ。『自然の近くに移住したいな』とか、『山野草を育てて生けることをしたいな』とか。
でも、当時は生活と子育てに必死でしたから、その余裕はありませんでした。子育てだって、楽しいものではあったんですけれどね。
ようやく暮らしが落ち着いたら、今度は年齢的に大きなシフトチェンジが難しかったんですね。それでも、いまいる暮らしや環境が大好きでもあります。
だったら、いまいるところでできることを考えよう。どうしたらストレスを減らして楽しく生きられるだろう、と考えるようになりました」
慣れ親しんできた場所で、楽しく、自然と関わりながら暮らしたい。
その思いが、自宅でのレッスン「野山の花の会」に結びついたのでした。
茶花に使われるような自然の野花を、暮らしのなかで生けてみるレッスンです。ささやかな野花があれば、いつもすごす部屋のなかにも、季節がうつろっていくでしょう。
井出さん:
「茶人の千利休が、茶花の教えとして『花は野にあるように』とのこしています。人の手が入ることで、野にあるように見えるんですよね。暮らしのなかでも、そこにずっとあったかのように生けられたら、と思っています」
心が満たされる場所や、自分らしくいられる時間は、案外すぐ近くにあるのかもしれません。
井出さんのお話を伺いながら、小さな希望がぽつんと胸に灯りました。
家計のために始めた仕事が、視野を広げてくれた
「実は私ね、もうひとつの仕事があるんです。近所の保育園の保育補助です」と井出さん。
びっくりしました。長いおつきあいがあるけれど、話題になったことはなかったからです。
40代になったばかりの頃、離婚して家計を支えていかなければならなくなったとき、「花の仕事だけでは安定しないから」と始めた仕事だったそう。週5日、夕方の3時間。
井出さん:
「息子たちがまだ大学生と高校生だったし、お金が必要だったんですよ。この仕事のおかげで収入が安定したから、花の仕事も無理なく、長く続けられたんです」
そうは言っても、最初はずいぶんと迷ったそうです。
井出さん:
「始めて2〜3年は、『どうして花に関係ない仕事をしてるんだろう、私…』と思いました。メディアにも出ていましたから、知っている人に会ったらどうしよう、とも思いました。
でも、息子二人は学生ですし、家を守って、食べていかなければならない。そう心に決めて続けました。
結果的に、この仕事をして本当によかったと思っています。知らない世界を見たことで、価値観が広がりましたから。
それまでの私は、花の業界のことしか知らなかったし、『こうでなくてはいけない』と決めつけてしまうこともありました。でも、本当は正解ってひとつではないのですよね」
星野道夫さんの言葉に教えられたこと
井出さん:
「私、星野道夫さんが好きなんですけれども、私たちがいま都会で過ごしている同じ瞬間に、アラスカの大海原ではクジラがジャンプしていて、北海道の山奥ではヒグマが歩いている、っていうことを書いてるんです。
そうして、
『ぼくたちが毎日を生きている同じ瞬間、もうひとつの時間が、確実に、ゆったりと流れている。日々の暮らしの中で、心の片隅にそのことを意識できるかどうか、それは、天と地の差ほど大きい。』(星野道夫『旅をする木』 文藝春秋刊)
と言っているんですね」
井出さん:
「星野さんみたいに大きな世界を見たわけではないけれど、いろんな答えがあって、いろんな社会が集まって…そうやって世の中ができているんだと実感したんです」
家庭を守るために始めた仕事だったというけれど、本当に好きなことを、好きでいつづけるためには必要だった…。
そんなふうに思えるのは、好きなことを好きでいることを、あきらめなかったからなのかもしれません。
こうして井出さんが始めた新しい習慣を、後編でご紹介します。
【写真】井手勇貴
もくじ
井出綾
花手・プランツスタイリスト。輸入雑貨店、デザイン事務所を経て、アレンジメント教室勤務。フリースタイルのフラワーアレンジメント、ランドスケープデザインを学び1994年よりフリーランス。雑誌、広告、イベント、商業施設でのアレンジやスタイリングと、「花あわせレッスン」「野山の花の会」やワークショップなどのスクーリングを主に、自然と暮らしをつなぐ花を提案している。ブケ ド ソレイユ http://soleil-net.com/
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