【57577の宝箱】気付かぬまま名前呼ぶたび繰り返す あなたに名付けた誰かの祈り

文筆家 土門蘭


「土門蘭です」と自己紹介すると、よく「珍しい名前ですね」と言われる。「芸名みたい」とも言われるけれど本名だ。
仕事を始めてからは、覚えてもらいやすい名前で得かもと思うけれど、子供の頃は自分の名前があまり好きじゃなかった。苗字も名前も、妙に厳ついし目立つから。

「名付けるとき、蘭以外に候補はなかったの?」
両親にそう尋ねたら、母は「みゆき」と名付けたかったのだと言った。「幸」と書いて「みゆき」。一人娘に幸せに暮らしてほしかったのだという。でも、どうしても父が名付ける権利を明け渡してくれなかったそうだ。

父は他の候補として「可憐」と「京美」という名前を考えていたらしい。どちらも私にとってはなかなか名前負けしそうな代物である。ちなみになぜ「蘭」なのか由来を聞くと、「キャンディーズの伊藤蘭ちゃんのファンだったから」。あまり深い意味はなかった。

「蘭」と名付けたとき、父は知り合いに、冗談まじりにこう言われたそうだ。
「蘭の花は育てるのが難しいから、ややこしい性格の子になるかもよ」

自分ではその予言は外れていると思うのだが、両親から見たらどうなのかはよくわからない。

§

よく、もし名前を変えられるなら、どんな名前がいいだろうと考えていた。

子供の頃の私が憧れていたのは「明日香」という名前だ。響きも爽やかだし、「明日が香る」ってなんて詩的なのだろうか。
あとは自分が8月生まれなので、「夏美」とか「葉月」もいいなと思っていた。生まれた時期を取り入れる、清潔なシンプルさがいい。
それから「あきら」や「かおる」といった中性的な名前をひらがなで書くというアイデアも魅力的だし、「楓」や「椿」などの植物の名前も捨てがたかった。自分だって植物の名前なのだけど。

ちなみに苗字に関しては、もし変えられるなら「北川」にしたい、とずっと思っていた。「北」という漢字の、ストイックで涼しげな印象が好きで、北に流れる川だなんて格好良すぎると思い、その苗字に妙に固執していたのを覚えている。

結果、「北川明日香」という氏名ができあがり、私は「北川明日香」と名乗る自分のことをよく想像した。涼しげで爽やかで詩的。そんな人間像に憧れていたのだろうことが、今ならわかる。名前を変えたいと願う私の中には、そうあれない自分へのコンプレックスがあったのかもしれない。

§

ところで大学時代、米田くんという人と英語の授業が一緒だった。
彼の苗字は「よねだ」ではなく「こめだ」と読む。それなのに先生は出欠をとるとき、毎回迷った挙句「えっと、よねだくん」「こ……よねだくん?」と呼ぶのだ。自信がないのなら、ルビを振るなり確認をすればいいと思うのだが。

その度米田くんは、
「こめだです」
と訂正した。何度も何度も、根気強く。

私は、そんな米田くんをいつも尊敬の眼差しで見ていた。私も稀に「つちかどさん」と間違えて呼ばれることがあるが、訂正するのが面倒でそのままにしていた。その人が私を呼んでいるのだということがわかればいいやと思って。

だけど米田くんは屈しない。その姿勢から、彼が自分の名前を大事にしていることが伝わってきた。そうだよなぁ、と思う。彼は「こめだ」であり、私は「どもん」だ。違う名前で呼ばれるべきではないよな、と。

でもある日、とうとう米田くんが投げ出したことがあった。もう何度目だったか、先生が「よねだくん」と呼んだとき、彼は呆れた声で、
「もう、よねだでいいです」
と言ったのだ。
私はそれを聞いて、胸が締め付けられるようだった。米田くんが傷ついているように見えたから。

彼とはまったく話したことはなかったけれど、授業後、私は「こめだくん」と初めて声をかけた。
「毎回名前を間違えられて、大変だね。先生も、いい加減覚えたらいいのに」
すると米田くんは「まあ、慣れてるんで」と疲れたような顔で笑った。

「よねだくん」と呼ばれることを受け入れてしまった彼は、なんだか輪郭までぼやぼやして見える。「こめだくん」と正しく呼ぶことで、彼の輪郭が元に戻ればいいと思った。

§

そんなことがあって以降、私は他の名前を羨むことをしなくなった。自分の名前を大事にしている人を見て、自分もそうありたいと思うようになったのだ。名前を大事にすることは、自分を大事にすることでもある。

そんな話をしたら、友人がこんなことを言ってくれた。
「すごくいい名前じゃん、土門蘭。強くて華やかでさ」
強くて華やか! 初めてそんな形容をされて、私は有頂天になった。そう言われてみると、とてもいい名前に見えてくる。単純なものだ。

「言葉の力ってやっぱりすごいね。急に良いものに見えてきたよ」
すると友人は、
「名前は、人に最初に与えられた言葉だもんね。きっと人に影響を強く及ぼすんだろうな」
と言った。

なるほど、それならば、自分の名前をできるだけ好きでいたいなと思った。その言葉が持つ意味、空気感、イメージを、できるだけ感じ取って、自分なりに良いように解釈したい。

「米田くんも、いい名前だよね。豊穣な感じで」
友人がそう言って、私は頷いた。たっぷりとした米俵をイメージしながら。

今も米田くんは、「こめだです」ってちゃんと言っているだろうか。

 

“ 気付かぬまま名前呼ぶたび繰り返すあなたに名付けた誰かの祈り ”

 

1985年広島生まれ。文筆家。京都在住。小説、短歌、エッセイなどの文芸作品や、インタビュー記事を執筆する。著書に歌画集『100年後あなたもわたしもいない日に』、インタビュー集『経営者の孤独。』、小説『戦争と五人の女』がある。

 

1981年神奈川県生まれ。東京造形大学卒。千葉県在住。35歳の時、グラフィックデザイナーから写真家へ転身。日常や旅先で写真撮影をする傍ら、雑誌や広告などの撮影を行う。

 

私たちの日々には、どんな言葉が溢れているでしょう。美しい景色をそっとカメラにおさめるように。ハッとする言葉を手帳に書き留めるように。この連載で「大切な言葉」に出会えたら、それをスマホのスクリーンショットに残してみませんか。

 


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