【週末エッセイ】昔ながらの保存食作りは、面倒で大変とは限らない。
文筆家 大平一枝
文 大平一枝
第二話:真夜中の味噌作り
味噌達人の家
長野で生まれ育った私は、中学時代のある日、母と同級生のI君の家に行った。I君ちの自家製味噌がとてもおいしいと評判だったので買いに行ったのだ。彼の家は見る限り味噌屋ではなく普通の農家だった。だが、自宅用に漬けた味噌の味が評判を呼び、望む人には実費で売るようになったらしい。私はその時初めて、味噌はスーパーの四角いプラスチック容器に入っているのが全てではないと知った。普通の家庭で手作りできるものなのだと。残念ながら味は覚えていないが、手作りという衝撃だけは覚えている。地方にはどこにも地元の人だけが知る保存食の達人という人がいるものだ。
それから何年かして私は上京した。東京生活は故郷で過ごした歳月よりはるかに長くなった。
味噌を漬けてみよう。そう思い立ったのは今から10年ほど前のことだ。たまたま加入していた生協の注文用紙に『味噌セット』という商品が載っていた。
大豆、塩、麹。……え、それだけ? すぐさまネットで味噌の作り方を調べた。大豆をゆでてつぶし、塩と麹と混ぜて味噌団子を作る。それを容器に入れ、塩で蓋をする。半年後には出来上がると書いてある。あの複雑な味がこんなシンプルな材料でできるなんてと驚いた。これならめんどくさがりの私にもできるかもしれない。ためらいなく注文用紙に丸をつけた。遠くにI君の顔が浮かんだ。少し甘酸っぱい気持ちになった。
仕込みは深夜二時
生協からセットが届くと、すぐ作業に取り掛からねばならない。麹が発酵してしまうからだ。水に浸した豆を圧力鍋で煮て、すりつぶす。1年分を仕込むとなると、煮るだけでも圧力鍋を何回も使う。煮てはつぶしの繰り返し。家族が寝静まってから、深夜の台所でやり始めた。なんだかそのほうが集中できるからだ。すりつぶす。混ぜる。丸める。空気を抜くため味噌団子を叩きつけるように容器に投げ入れる。無心で楽しい。家中、大豆のほのかに甘い匂いがたちこめる。
私はラジオを付けた。『NHKラジオ深夜便』という番組を初めて聴いた。騒々しいCMがなく、ベテランの女性アナウンサーが、穏やかな口調で「今、お仕事をされている運転手の皆さん、どうぞ安全運転で」と優しく語りかけていた。私の知らない深夜の世界。豆と戯れながら静かに夜が更けていく。
私の手作りを家族が1年間食べる。混ざりもののない安心の材料で作った、世界でひとつの味噌を1年分確保できる喜びと達成感は、想像以上に大きい。この白い味噌玉が熟成して褐色になる頃はどんな味になっているだろう。その頃は運動会があるな。今年の娘は1等賞とれるかな。おいしくできたら両親にもちょっと分けてあげようか。そういえばI君、元気かな……。味噌と向き合いながら自分の中のいろんな記憶と対話をする。その時間が心地よくて、その後毎年漬け続けることになったのかもしれない。
もちろんできあがった味噌はとんでもなくおいしい。あんなにシンプルな材料で、たった一晩の仕込みなのに毎日1年間も、この小さな喜びを味わえるなんて、こんなお得なことがあろうか。昔ながらの保存食作りは、面倒で大変とは限らない。だったら忙しい農家の主婦ができなかったはずだ。簡単でおいしくてお得で、いいことづくめだ。
秋冬に仕込むと、気温が低いためゆっくり熟成し、味に深みが出るという。そろそろラジオをつけ、いろんな思い出にひたりながら豆とのひそやかな夜を楽しむとしよう。
娘が幼い頃、味噌汁でつぶれていない大豆をみつけると「当たりだ」と喜んだ。このやわらかな発想。(撮影:大平一枝)
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