【週末エッセイ】仕事や子育てに追われる「今日」の連続にも、きっと終わりはくる。
文筆家 大平一枝
第六話:魔法の言葉、「今日どこ行く?」のゆくえ
男子4人の会話から
土曜日の昼下がり、三軒茶屋の安くておいしいタイ料理の定食屋に行った。ランチタイムを過ぎていて、客は私たち夫婦と若い男性4人組だけだった。小さな店なので、時折客の会話が聞こえてくる。どうやら社会人1年生のようだ。
久しぶりに同級生と会ったようでリラックスした雰囲気で盛り上がっていた。その中のひとりが言った。
「”今日どこ行く”って、最強の言葉だよな」
ああわかるわあ、それと、他の3人が今までより一段大きな声で応えた。くだんの彼が続ける。
「おれ、大学のとき、起きたら今日なにしよっかなーって考えるのが朝一番最初にすることだったもん」
「そうそう。ボーリング行こっかなー、新宿行こっかなーとかな。まずはあいつにラインで何するか相談しようみたいな」
「毎日時間だけは死ぬほどあったからな」
4人につられて、私まで笑いそうになった。そうそう、学生ってそういうものだ。時間だけはありあまっている。今日も明日も明後日も、たいした予定はない。授業とバイトと遊ぶこと。そんな贅沢な時間が4年間もあるのだ。
「社会人になると土日はクリーニング屋に行ったり、食料の買い出しに行ったり、けっこうやることあんだよな。俺、休みにこういうとこでランチするのすげー久しぶり」
「土日に研修ひっかかったりするしな」
ひとしきりそれぞれの仕事状況の話があり、だれともなくつぶやく。
「ホント、よかったよな」
あのころ、という言葉をあえて言わない彼らの気持ちが痛いほどわかった。予定のない日の連続だった幸福な過去にはもう戻れない。社会人の今は、会議や決算やいろんな予定の詰まった日々を生きている。今日の今日、することがないなどという日はこれからもないのだ、たぶん。
定食を食べ終えると、「じゃあ行くか」とひとりが立ち上がった。
「おお、行くべ」
「今日、何する?」
4人がどっと笑った。
「とりあえず、風呂行って考えよーぜ」
スパかなにかにいくのだろう。小さなバッグを抱え、わいわい言いながら出ていった。
夫と目が合った。
「うちらにもあったよね、ああいうころ。たしかに今日どこ行くってホント、最強の言葉だね」
夫とは19歳のとき、同じ学生寮で知りあった。ただただ無限に時間だけが横たわっていた時代の共通言語を、ぎりぎりわかり合える。
サラリーマンだけではない。子育てをしている主婦だって同じだ。子どもの習い事の送迎、家事、ご近所付き合い、PTA。午前中公園で子どもと遊んでいる母親たちは優雅に見えるかもしれないが、そこに行くまでに掃除や洗濯を済ませて体を空けてくる。帰宅後も、子どもを昼寝をさせている間に夕ご飯を用意したり、洗濯物をたたんだり。誰にも毎日、いろんな予定がつまっているのだ。
「今日どこ行く?」なんていう日はほぼない。
人生は巡る
ところが、である。
先週、ある日不意に、私の人生にそんな日がやってきた。
日曜日の朝。いつもより遅めに起き、布団の中でぼーっとしていると、夫は先に起きていて、どこかへ行く仕度をしている。
「どこ行くの?」と尋ねると
「映画、見ようと思って。みそこねてたやつ、あそこの映画館でまだやっているみたいだから」
「ふーん」
ねぼけまなこで今日の予定を思い出す。と、気づいた。何も予定がない。子どもの行事も、友だちとの約束も、平日にやり残した仕事の残りも。不意に予定外の言葉が口を突いて出た。
「私も行こうかな」
「10時からだから行くならもう仕度しないと間に合わないよ」
そこから飛び起き、急いで身支度を済ませ、20分後には家を出ていた。歩きながら考えた。朝起きたときに思いついた場所に行くのは何年ぶりだろう。
おそらく新婚時代はあった。だが子どもが生まれてから今日までほとんどなかったのではあるまいか。
人生は巡るのだなあとしみじみ思った。毎日家族の誰かの用事に合わせて過ぎてきたが、こんなふうにぽっかりと何もすることのない日がやがて誰にも訪れるのだ。子どもが巣立ち、夫婦二人だけになったらこんな日はもっと増える。
今、子育てや家事や仕事に追われ、息つく間もないお母さんたちにも伝えててあげたい。そういう日はいつか必ず終わりが来るし、過ぎてしまえば光陰矢のごとし。本当にあっという間なのです、と。
「今日どこ行く?」が言えるありがたさは、過ぎてみないとわからない。同様に、自分の手が必要とされる家族のために毎日やることが目白押しという日々の充実感やかけがえのなさも、過ぎてみないとわからないものだ。
還暦という字の「還」は「元の位置・状態に戻る」という意味がある。つまり暦が戻る。人生は巡り巡って元に戻るのだ。
さすがに還暦は先のことだが、この字は、今ある今日が永遠ではないということを教えてくれる。しんどいことや、余裕がなくてイライラしがちなときにちょっと思いだしてもらえたら嬉しい。
さて、あの4人組は風呂のあと、どこへ行ったのだろうか──。
***
『週末エッセイ 暮らしのなかで出合う、小さな謎。』全6話はこれでおしまいである。
執筆は、毎日同じようで毎日違う今日という日を手ですくい取り、見つめなおす作業ともなった。拙い言葉がみなさんの心に少しでも届いたなら幸いである。
感想メールはすべて嬉しく読ませていただいた。
ご愛読ありがとうございました。
子育てが一段落したこともあり、昨年、念願の女友達とのパリ旅を決行。(撮影:大平一枝)
▼大平さんの週末エッセイvol.1
「第一話:新米母は各駅停車で、だんだん本物の母になっていく。」
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