【金曜エッセイ】家族で行ったタイ旅行で…(文筆家・大平一枝)
文筆家 大平一枝
第十三話
ペットボトルの蓋の開け方を忘れた!?
家族でタイ旅行をした。かの国で絶対に欠かせないのはミネラルウォーターのペットボトルである。地元の人も、なにかあると飲んでいる。安宿でも、キッチンの他に洗面所にも置かれていたので、歯磨きにもこれを使えということだろう。コンビニで7バーツ(約20円)だ。
じつは、6泊7日の旅で、蓋をこぼさずに開けられるようになったのは最終日のことである。私は、やわやわのペットボトルの蓋の開け方を忘れていたのだ。
手で握るとペコリと凹む柔らかいプラスチックでできたペットボトル。日本の硬いボトルの要領で、握ったまま無神経にフタを開けると、必ず噴水のように、手で握った容積分だけ水が飛び出す。
おまけに、小さなことだが、蓋にはりついたセロファンのフィルムを剥がすのにえらく時間がかかった。日本のそれのように、はがしやすい点線の切れ目がきっちり入ってないのだ。
ペットボトルの水を一口飲むのに、まごまご手間取る。さらに最後に必ず膝や服を水で濡らすありさまで、私はいつから水を飲めなくなってしまったのかと情けなくなった。
かつて、旅をテーマに仕事をしているイラストレーターの友人がこんなことを言っていた。
「旧ユーゴスラビアの旅から帰国。成田空港で買ったお茶のペットボトルのデザインが、親指と4本指を添えやすくするくびれが入って、マイナーチェンジしていた事に驚いた。出国のときはそうじゃなかった。いったいどこまで日本の企業は消費者に親切なんだと。同時に、ああ、日本に帰ってきたのだとホッとした」
政情の厳しい、毎日が緊張の連続の旅を経て、久しぶりに帰国した地で最初に手に取ったお茶のペットボトルのわずかな変化に、至れり尽くせりの日本らしさを思い出し、心がほどけたのだろう。同時に、くびれを通して、平和な日本と、さっきまでいた国との天と地のような差を再認識したに違いない。
指のくぼみまで作る日本の便利さに慣れきり、水をこぼさずに蓋を開けられないほど、生活の技術が落ちていた自分にショックを受けた。
与えられたゆたかな生活の中では、便利なものは、いつしかあたりまえの「標準」になり、手や知恵を使う機会が目減りする。それは、大げさに言えば、暮らしの技術みたいなもので、便利を当たり前に思っていると私のようにある日突然ショックを受ける。
たぶん、私は子どもの頃のほうがあのボトルをこぼさず上手に開けられたのではないか。ペットボトルは硬くて開けやすいものという思い込みがない年齢だったら……。
もうひとつ、ウォシュレットのないトイレに慣れるのに時間がかかったことも書き添えておこう。それがないトイレの使い方を忘れていた。ついこの間まで、それがない時代に生きていて、なんの不便も感じなかったのに。
けっこう、この忘れ物は大切なことだぞ、と胸に刻んでいるところである。
文筆家 大平一枝
長野県生まれ。編集プロダクションを経て、1995年ライターとして独立。失われつつある、失ってはいけないもの・こと・価値観をテーマに、女性誌、書籍を中心に各紙に執筆。『天然生活』『dancyu』『Discover Japan』『東京人』等。近著に『届かなかった手紙』(角川書店)、『男と女の台所』(平凡社)、『あの人の宝物』『紙さまの話』(誠文堂新光社)などがある。朝日新聞デジタル&Wに、『東京の台所』(写真・文)連載中。プライベートでは長男(22歳)と長女(18歳)の母。
▼大平さんの週末エッセイvol.1
「新米母は各駅停車で、だんだん本物の母になっていく。」
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