【金曜エッセイ】4月が通り過ぎた東京で。(文筆家・大平一枝)
文筆家 大平一枝
第十五話:代謝する街
4月の東京は、新しい人たちに満ちている。進学や就職や転勤のため上京してきた人で、駅も道もスーパーマーケットもどこもふくれあがっている。ホームで人とぶつかりそうになったり、いつもより幾分音量が上がった車内アナウンスをきいたりすると、ああこのエネルギッシュな季節がまたやってきたなと、こちらまで新しい気持ちになる。
27年前、私もあんな風に緊張気味に、頭上の道路標識や地名やビルを見ながら東京を歩きだした。
生活と仕事と上京を同時に始めたので、いろんなことに余裕がなく、街を覚えるのは一番最後になった。
4年間勤めた編集プロダクションを、臨月で退社する日、送別会をしてもらった。二次会の帰りだったか、通りがかった賑やかな通りにかかるアーチ型の看板を見て、私は目を丸くして言った。
「ここが歌舞伎町かー」
そのときの「え、まさか(知らなかったの?)」と目を丸くした先輩たちの表情が忘れられない。
街を覚えるより前に、仕事の段取り、人の名前と顔、通勤路、新しい生活をきりもりするために覚えねばならないことがいくらでもあった。そうして気づいたら、新宿一の繁華街、歌舞伎町を知らぬまま4年が経っていたのである。そういえば新宿西口から東口への地下通路がわからず、タクシーに乗ったこともあった。運転手が苦笑いしていたっけ。
4月のぎゅうぎゅうの東京をみると、大丈夫かなと心配になるが、不思議と5月あたりから人が減って、街に隙間ができてくる。通勤通学コースに慣れて、人の流れがスムーズになるためか、はたまた大学にいかなくなる学生がいるからか……。
そして、なんとなく行き交う若い人たちに笑顔が増え、穏やかな表情になる。もう、彼、彼女たちは西口から東口になんて、きっと迷わず行けるんだろう。
東京と、実家の長野と。呼吸の深さが違うように感じるのは、27年いても無意識のうちに東京ではどこかで緊張しているからかもしれないと思う。実家にいると、呼吸がゆっくり深くなり、まるで毛穴までゆるみきるようだ。電車で東京に戻る道すがら、窓ガラスに映ったなんとものんびりと、たるみきった自分の顔を見て、ハッとすることも。
故郷の空気は、いつ行っても私に甘いのである。
夏が来て、秋が行き、正月になると東京は、ぐっと車も人も減り、閑散とする。そして3月、桜の季節に立ち去る人、入ってくる人で気ぜわしくなる。
こうしてこの街は、永遠に代謝しているのだ。
真新しいスーツやバッグで、緊張気味に歩いている若い人を見ると、歌舞伎町を知る隙もないほど、がむしゃらに生きていた蒼い日々を思い出す。代謝する街で、自分をどんどん新しく上書きしているようなつもりでいるが、27年経っても、じつのところあまり変わっていない。たとえば、まだ新宿や六本木に行くとおどおどするし、渋谷の交差点が苦手だ。
変わったのは、この街での頑張り加減をわかってきて、ひたむきでもがむしゃらでもなくなってきたこと。それはつまり妥協点を自分で設定するということでもあり、威張れたことではない。
仕事はひたむきに。付き合いは丁寧に。生活は肩の力を抜いて。
代謝する街で自分をどうか見失わないようにと、緊張が解けてきた若い横顔に、心の中でそっと話しかける5月なのである。
文筆家 大平一枝
長野県生まれ。編集プロダクションを経て、1995年ライターとして独立。『天然生活』『dancyu』等に執筆。近著に『届かなかった手紙』(角川書店)など。朝日新聞デジタル&Wで『東京の台所』連載中。プライベートでは長男(22歳)と長女(18歳)の母。
▼大平さんの週末エッセイvol.1
「新米母は各駅停車で、だんだん本物の母になっていく。」
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