【金曜エッセイ】はじまりの味(文筆家・大平一枝)
文筆家 大平一枝
第二十話:はじまりの味
友達と、人生で一番おいしかったビールの話になった。
代理店に勤める彼女は真夏、1日屋外のイベントに立ち会ったのち、仲間と打ち上げで飲んだビールが忘れられないと語る。
はて、わたしはなんだったろうと考えた。初めて飲んだ真っ黒なギネスビール。タイの埃臭い路端の屋台で飲んだシンハー。はたまた、ビール工場のできたての生ビール……。
脳内をぐるぐるひとまわりしてたどり着いた古い記憶は、新婚間もない初夏。結婚式の1週間後くらいのことである。映画の仕事をしている夫の事情で新婚旅行にも行けず、パーティの翌日から、私達は共働きの平常暮らしだった。
週末、ふたりで淡々と家の掃除や洗濯を終え、昼でも食べようかと近所を散策。彼が住んでいた家に転がり込んで半年。私にとっては余り馴染みのない街で、“夫婦”として歩くのは、初めてに近かった。
駅前のなんでもない中華屋の2階に、パブという看板が見えた。パブなのに、ランチもやっている。よし、入ろう。
お客はほかにだれもいなくて、母ぐらいの年齢の女性が一人でやっている。壁に『バンフ・スプリングス・ビール』と書いてある。どうもこの店の一押しらしい。
まだ正午を回ったところである。夫とは顔を見合わせる。
「どうする?」
「暑いし、飲んでみよっか」
29歳。お互いにフリーランスになりたてで、仕事もふたり暮らしも始まったばかり。そんな駆け出しの身分の自分たちが、昼間からビールなんて飲んでいいのか? 口には出さないが、なんとなくためらいがあった。私は、咎める人など誰もいないというあたり前のことを思い出して、言った。
「いいじゃん。飲もう! 今日やることはやった。営業終了!」
やることとといっても家事ぐらいだが、私達はなんだか気が大きくなり、その聞き慣れない名のビールを頼んだ。瓶と、よく冷えた円錐型のグラスが運ばれてきた。
ラガーより色が薄め。喉がキュルキュル鳴るような、さっぱりスッキリしたのどごし。
「うっ、うまいっ」
どちからともなく声が漏れる。
本当に、涙がでるほどおいしかった。
重くない、昼間にぴったりの夏のビールだ。瓶なのにフレッシュで、今でいうクラフトビールのような個性的な味がした。聞くと、カナダのもので、バンフスプリングスは、川、森、山に囲まれた彼の国有数の自然豊かなリゾート地らしい。
それをきいて、見たこともないカナダの大自然、雪の冠が残る夏山、緑の連なる爽やかな草原に思いを馳せた。
それから2杯ずつ飲んで、その日はぶらぶら、古本屋やスーパーなどを歩き、午後はダラダラと過ごした。
以来何度か行ったものの、翌年私達は郊外に越してしまい、気がついたときには店はなくなっていた。
あれが人生で一番うまいビールと断言できるのは、自分の裁量で昼間からビールを飲んでも誰からも咎められない、そういう大人になれたのだという実感と、予定のない日曜日に思いがけずおいしいビールに出会えた、たったそれだけのことでも二人だと楽しいと思える、そんな、駆け出し夫婦の喜びが加算されているからに違いない。
いつかバンフスプリングスに行きたいなあと憧れた。そんな淡い夢より優先する旅先がいくつもできて、行けずじまいで20年余も経ってしまった。
いま、どんなに検索してもバンフスプリングスビールという単語が出てこない。
あれは幻だったのだろうか? 湖と雪山が描かれた瓶のラベルもこれほど鮮明に覚えているというのに。
人生で一番おいしかったビールは古い記憶の向こうに、いまもキンキンに冷えている。
文筆家 大平一枝
長野県生まれ。編集プロダクションを経て、1995年ライターとして独立。『天然生活』『dancyu』等に執筆。近著に『届かなかった手紙』(角川書店)など。朝日新聞デジタル&Wで『東京の台所』連載中。プライベートでは長男(22歳)と長女(18歳)の母。
▼大平さんの週末エッセイvol.1
「新米母は各駅停車で、だんだん本物の母になっていく。」
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