【金曜エッセイ】働く母、駆け出しのころ(文筆家・大平一枝)
文筆家 大平一枝
第二十三話:
オルゴールと駆け出し母ライターの日々
柄にもなく、オルゴールを持っている。スイスのリュージュ社製で、20年前、自由が丘の小さな専門店で買った。
今はあまり開くことがないが、育児に奮闘する若いお母さんなどを見ると、時々オルゴールを買ったあの日を思い出す。
そのころ、私と仕事仲間のSは疲れ切っていた。ふたりで請け負った編集執筆仕事が、やってもやっても終わらない。互いに幼児をかかえ、朝から保育園と仕事場と自宅を、小走りで往復。夜遅く、月を見上げながら帰ることも多かった。
ある日、珍しく仕事が早く終わるめどが付いた。共通の友人Kさんのオルゴール店に行こうという話になった。結婚式以来、会えぬまま時が過ぎていたからだ。
明るいうちにプライベートな用事をするのは数週間ぶりで、おしゃれな通りを歩くだけで、浮足立つ。
半地下にあるその店のガラスケースには、大小様々な四角い木製のオルゴールが並んでいた。
Kさんは、リュージュ社の歴史や緻密な職人技、弁の数によって音色や価格が変わるのだと教えてくれた。
安いものでも、4万円ほどだったろうか。とても手が届かないないね、と互いにフリーになって間もない私たちはつぶやく。Kさんは微笑む。
「いいのよ、買わなくて。来てくれただけで嬉しいんだから。それより、ふたりとも働きすぎじゃない? すごくきれいな音色で癒やされるから、どれでも聴いてみて?」
おすすめの曲を尋ねると、彼女は「いまのあなたなら『G線上のアリア』かな」と言い、キリリリリとゼンマイを巻いた。
ガチガチに固く乾ききっていた心に優しくふりそそぐ雨のような、眠りに落ちる寸前の子どもの背中を、優しくとんとんとんする母親の安らかさな手のような、澄んだやわらかな音色が、木の箱から流れ出た。
数秒も経っていないだろう。涙がこみあげ、最後はぼたぼたと膝に落ちた。隣でSも号泣している。「あれ? な、なんなんだろ、私達。やだ、恥ずかしい」
ぐしゃぐしゃの顔を見合わせ、泣きながら笑った。
自分はこんなに疲れていたのか。素朴で美しい音色は「もうそんなにがんばらなくていいんだよ」と囁いているかのようだ。家では子どもを励まし、ねかしつけまでを担う夫をねぎらい、仕事場ではミスのないよう気を張り続ける。でも、私自身はだれかにいたわられたろうか……。
いろんながんばってきた糸が、ふわりとゆるんだ。ぷつんと切れるのではなく、心地よくほどけたのである。
Sの選んだ曲は何だったか忘れたが、ふたりともクレジットカードの分割払いで買った。
あの帰り道の心持ちの、なんと幸福だったことか。私にはこれがついている。やすらぎの素がつまった素敵な宝箱が。
音、色、香り……。人は五感に響くささやかなものに、大きく救われることがある。それはときに、励ましやねぎらい、多くの言葉より力を持つことも。
たった数秒が心をとかしたように、今、もし心も体もへとへとになっている人がいたら、オルゴールの代わりに、たとえばせめてあたたかいお茶1杯でも、ていねいに淹れてあげられる余裕をたずさえていたいと強く思う。そろそろ、私にもそういう順番がまわってきている。
文筆家 大平一枝
長野県生まれ。編集プロダクションを経て、1995年ライターとして独立。『天然生活』『dancyu』『幻冬舎PLUS』等に執筆。近著に『届かなかった手紙』(角川書店)、『男と女の台所』(平凡社)など。朝日新聞デジタル&Wで『東京の台所』連載中。プライベートでは長男(22歳)と長女(18歳)の母。
▼大平さんの週末エッセイvol.1
「新米母は各駅停車で、だんだん本物の母になっていく。」
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