【57577の宝箱】あやふやの心を抱えて帰宅して 正しい形に整え眠る

文筆家 土門蘭

この間、初めて絵を買った。

その作家さんの絵は、あるホテルの紹介記事で知った。写真に映った室内に、彼女の絵が飾られていたのだ。
一目見た瞬間に、心を奪われた。いや、奪われたというよりも、心が元の形に戻ったと言ったほうが良いかもしれない。これまであやふやな輪郭だった心が、すっと正しい場所に引き戻され、正しい形に落ち着くような。
わたしはときどきそういう作品に出会う。音楽とか、小説とか、映画とか。でも、絵にここまで惹かれるのは初めてだったので動揺した。絵なんて買ったことも飾ったこともなく、この気持ちをどう扱っていいのかわからなかったのだ。それでも「この絵はわたしの絵だ」と確信していた。わたしの正しい心の在り方を描いている、わたしのための絵だと。

タイトルもコンセプトも、誰が何をモチーフに描いたものなのかもわからない。それなのにそう思えることが不思議だった。
「この人の絵、どこに行ったら買えるのかな」
何の前情報もないまま、初めてそんなことを考えた。

§

あるとき、彼女の個展が京都で開催されることを知った。コロナの影響で中止になるかと思っていたわたしは、喜び勇んで会場へ向かった。初めて生で見られることがとても嬉しく、それと同時に少し怖くもあった。まるでずっと憧れていた人に会いに行くような気持ちだった。

ギャラリーには彼女の絵が何枚も飾られ、制作風景を撮った映像も流れている。わたしはそれらを丹念に見た。遠くから近くから、右から左から。
彼女の絵は、どれも心ゆくまで青い。一見青一色なのだけど、よく見るとその層は微妙に色が異なっていて、何色もの青色でできあがっている。
その青色はすべて彼女自身がこしらえた絵の具だそうで、青だけで200色を超える。彼女は一色一色、青を手に取ってはキャンバスの上にチューブで円を描き、外へ外へと円を加え肥えさせていく。そして最後に、一筆を全体に一気に加えて絵ができあがるのだ。彼女はその一筆描きを、絵の具の美しさを最大限に引き出すための「最小限の行為」と表現していた。

制作背景を初めて知ったわたしは、自分の直感が間違っていなかったと感じた。
わたしはまさに、その絵の青色の美しさに惹かれたのだ。まるで、いっときも同じ色をしていない、空や海のような青色。
偶然性のもとに生まれたその青は、どの瞬間も美しい。なぜなら「青」という色自体がすでに美しさを秘めているからで、わたしたちはそれにあれこれと手を加える必要はない。わたしたちができるのは、その美しい青をそのまま世に届けようと努めることだけだ。
彼女の絵を見て感じたことはまさに、わたしが「世界」に対して感じること、そして「書く」ときに大事にしていることそのものだった。

そうか、これらの絵はわたしの写し鏡なんだ。
真っ青な絵に囲まれながらそんなことを思った。自分が大切にしていることを一枚の絵で表現された。だからわたしは、彼女の作品に惹かれたんだ。

鏡のような絵を、わたしは覗き込む。その中でも、自分の心がクリアに映し出されるような一枚を選んだ。
わたしはドキドキしながら、「この絵を買いたいのですが」と作家の彼女に声をかけた。

§

正直に言うと、作家の彼女と話をするのが一番怖かった。「この絵はわたしの絵だ」と思ったあの印象が、彼女と話すことによって「やはり違った」と感じたらどうしようと思っていたのだ。

だけど、それは杞憂に終わった。わたしたちは向き合い、挨拶をし、話をした。彼女は、その作品は売れてしまっているので、もう一度同じものを作るのでもいいかと言った。
「偶然性の高い作品なので、まるきり同じものはできないのですが」
そう話す彼女に、わたしは頷く。むしろそちらのほうが喜ばしかった。まだ見ぬ青色がわたしの手元にやってくるなんて、何て贅沢なんだろう。

彼女はお礼を言い、事務的な手続きの準備を始めた。わたしはまるで、「作者」ではなく作品の「保護者」と話しているような気持ちになった。彼女は作品を生み出した人というよりも、作品を世に送り届けた案内人のような顔をしていた。美しいものは人が生み出すのではなく、偶然性の中にすでにある。そして自分の仕事は、それを送り届けることだけなのだと。わたしはそんな彼女の真摯な姿勢にホッとした。

事務手続きを終えて、その絵はわたしのものとなる約束がされた。届くのは、1年後だと言う。

§

家に帰ってから、さっそく買った絵をどこに飾ろうかと考えたのだが、実はまだ決められていない。仕事場であるリビングにするか、寝室にするか、自室にするか。それとも玄関でもいいかもしれない。

その絵はありのままのわたしではなく、理想の、あるべき姿のわたしを写してくれる。
きっと向かい合うたびに、心が正しい場所に戻るだろう。
「あなたが大事にしていることは、こういうことでしょう?」
そう教えてくれる絵が、もうすぐわたしの家にやってくる。

 

 

私たちの日々には、どんな言葉が溢れているでしょう。美しい景色をそっとカメラにおさめるように。ハッとする言葉を手帳に書き留めるように。この連載で「大切な言葉」に出会えたら、それをスマホのスクリーンショットに残してみませんか。

 

1985年広島生まれ。小説家。京都在住。小説、短歌、エッセイなどの文芸作品や、インタビュー記事を執筆する。著書に歌画集『100年後あなたもわたしもいない日に』、インタビュー集『経営者の孤独。』、小説『戦争と五人の女』がある。

 

1981年神奈川県生まれ。東京造形大学卒。千葉県在住。35歳の時、グラフィックデザイナーから写真家へ転身。日常や旅先で写真撮影をする傍ら、雑誌や広告などの撮影を行う。


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