【57577の宝箱】“ present ” 意味 : プレゼント、現在の 過去から贈られ今が在ること
文筆家 土門蘭
マグカップにティーバッグを入れて、沸かしたてのお湯を注ぎ、色が変わったら蜂蜜に漬かったスライスレモンをひとつ放り込む。仕事を始める前で考え事をしていて、雑に放り込んだものだから、お湯が跳ねてキッチンの台が汚れてしまった。ため息をついて、ふきんで拭く。
今日もやることがいっぱいだ。あれもしてこれもして、それからスーパーにも銀行にも行かなくちゃ。ああ、時間ができたら喫茶店に行って、おいしい紅茶が飲みたい。
そんなことを思いながらじわじわ浸されていくレモンを見ていたら、ふと、このレモンを買った日のことを思い出した。
瓶で売られているこの蜂蜜漬けレモンは、炭酸水で割ってもお湯で割ってもおいしい。「これがあると、毎日に楽しみが増えて素敵だろうな」と思って、通販で買ったものだった。
そう考えてみたら、このグレーのイッタラのマグカップだって、無農薬で育てられたという紅茶葉のティーバッグだって、「これがあると素敵だろうな」と、うきうきしながら買ったものである。
過去のわたしは、未来のわたしのためにこれらを買い揃えてくれたんだよなと思うと、なんだかいじらしく感じた。ついついあるのが当然になって、雑に扱ってしまっていたなと思い、過去のわたしに対して申し訳ない気持ちになる。
できたてのレモンティーは、熱くて濃くて、良い香りがした。
§
先日、初めて京都の龍安寺を訪れた。
有名な石庭には、15個の石が配置されている。だけど、15個全部が同時に見られる場所はない、という話を聞いたことがあった。
本当に全部の石が見える場所はないのだろうかと、うろうろと縁側を動いて探してみた。立ち止まるたび1個1個数えてみるが、確かに残りのひとつが見えない。不思議だなぁと思いながら、それでも諦めずにしぶとく探してみたら、「あっ」と思わず声が出た。15個全部見える場所を見つけたのだ。
満足しながら、庭から離れて縁側をまわっていく。すると、外にあるつくばいにこんな文字が刻まれているのが見えた。
「吾唯知足」……われ、ただ足るを知る。
それを見たとき、なんだか急に恥ずかしくなってしまった。15個全部を一度に見てやろうと、躍起になって縁側をうろうろ歩き、美しい庭を堪能することなく過ごしていた自分のことが。
いろんなものを持っていても、「足りない」「足りない」と言って、ずっとキョロキョロしている普段の自分を、見透かされたような気持ちだった。本当は足りているのに、足りているということを知らない自分は、一生足りることがない。
つくばいを前に、もう一度胸の内で繰り返す。「われ、ただ足るを知る」。
§
自分で淹れたレモンティーを飲みながら、そんなことを思い出す。
あの言葉をずっと忘れないようにしようと思ったのに、わたしはすぐに忘れてしまうなと。
時間ができたら喫茶店に行こうと思っていたが、やっぱりやめることにした。仕事がひと段落ついたら、自分の部屋を片付けようと思い直す。それで、今自分が持っているものをもう一度ちゃんと見直そう。
部屋の中には、買ったのにまだ箱から出してもいない新しい靴や、読んでいない本の束、クローゼットに乱雑に押し込まれている服の数々が並んでいる。
そのひとつひとつを手に取りながら、買ったときのことを思い出した。「これがあると、毎日が素敵になるだろうな」そう思って買ったのに、わたしは素敵な思いに浸る暇もなく、次々と自分にないものを探し出しては欲しがった。
過去のわたしが「毎日が素敵になりますように」とプレゼントしたものを、未来のわたしはちゃんと受け取れていなかったのだ。
靴を出し、本を整理し、服を仕分けする。アクセサリーを磨き、鞄を拭いて、古いものやいらなくなったものはゴミ袋に入れる。
そういった作業をしながら、過去の自分に「ごめんね」と思った。ちゃんとプレゼントを受け取れなくてごめん。大事にできなくてごめん。いつも足りないなんて思ってごめん。
過去のわたしは、こんなにも今の自分に、たくさんの贈り物をくれていたのだ。
部屋が整うと、自分が何を持っているのかを把握できた。何を持っていて、誰とつながっていて、どんな仕事をしてきたのか……
すると、自分はすべて持っている、という気持ちになった。もちろんすべては持っていないのだけど、過去の自分が今の自分のために与えようとしてくれていた、その気持ちを感じ取ることができた。
プレゼントを受け取れて、心がやっと満たされた。そんなふうに思った。
§
レモンティーを飲みながら思い出したことがもうひとつある。それは、「現在」は英語で「present」というのだということ。
現在のわたしは、過去のわたしからのプレゼントでできている。過去の自分にお礼を伝えるためにも、その贈り物をきちんと慈しみ、大切にできる自分でありたい。
私たちの日々には、どんな言葉が溢れているでしょう。美しい景色をそっとカメラにおさめるように。ハッとする言葉を手帳に書き留めるように。この連載で「大切な言葉」に出会えたら、それをスマホのスクリーンショットに残してみませんか。
1985年広島生まれ。小説家。京都在住。小説、短歌、エッセイなどの文芸作品や、インタビュー記事を執筆する。著書に歌画集『100年後あなたもわたしもいない日に』、インタビュー集『経営者の孤独。』、小説『戦争と五人の女』がある。
1981年神奈川県生まれ。東京造形大学卒。千葉県在住。35歳の時、グラフィックデザイナーから写真家へ転身。日常や旅先で写真撮影をする傍ら、雑誌や広告などの撮影を行う。
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