【半歩先の世界】第3話:「どれだけ違うか」より「どれだけ同じか」が面白い(翻訳家・岸本佐知子さん)

ライター 嶌陽子

知らなかった世界や職業についての話をじっくり聞く特集「半歩先の世界」。今回は、翻訳家の岸本佐知子(きしもと さちこ)さんにお話を聞いています。

第1話では、会社勤めをしながら翻訳学校に通っていた時のこと、第2話では実際にどのように翻訳という作業を行っているのかについてじっくり伺いました。最終話の今回は、翻訳力の高め方やエッセイを書く理由、そして海外小説の楽しみについても聞いていきます。

第1話から読む

 

会社員時代の体験が、翻訳する上でのデータベースに

翻訳というと、原作の言語に通じていなければならないのはもちろん、それよりも大事なのは日本語の表現力なのでは。岸本さんの訳した作品を読んでいるとそう思わされます。日本語力を高めるために、何かしてきたことはあるのでしょうか?

岸本さん:
「美しい翻訳をするには美しい日本語を読むべきですか、とよく聞かれるのですが、とにかくいろんな言葉を全部体の中に入れた方がいいんです、汚い言葉も含めて。

私の師匠の中田耕治先生は『とにかく映画を観なさい』って何度もおっしゃっていました。映画を観ると、人がこういう状況に置かれた時にはどんな表情や声で話すかが分かる。あるいはその町の景色とか、そういうことも含めて総合的な情報の塊が入ってくるんだって。だから『どんなくだらない映画でもドラマでも観なさい』って言われましたね」

岸本さん:
「私自身は、自分の表現の貯蔵量が広がったのは会社に勤めていた時なんです。ある状況下で人はどういう表情をするのか、どうしゃべるのか、どう動くのか、その時の景色や空気はどうか。会社はそういう情報の宝庫でした。

いろんな人がいる状況に否応なしに置かれた中で見聞きしたことや体感したことが、丸ごと自分のデータベースになって、翻訳にすごく役立ちました。

会社を辞めてからもう数十年経っているので、忘れてしまっていることもあるんですけど。だからもう一度勤めたいと思うくらい。

『翻訳家になりたいんですが、何かアドバイスをください』って言われたら、私はとにかく一度就職したほうがいいと言います。その経験は絶対に無駄にならないと思うので」

 

30年以上続けても「分からない」はある

▲オーストラリア人作家、ショーン・タンの作品で初めて絵本を翻訳。「絵本はラクだろうと思っていましたが、全くそんなことはありませんでした」

この道30年以上のベテランである岸本さんでも、時には訳が分からないこともあるといいます。

岸本さん:
「うんうん唸りながら考えても、なかなかうまく訳せない時もありますよ。難しい英語は辞書を引けばいいけど、厄介なのはやさしい単語の組み合わせなのに意味が分からない場合です。その場合はネイティブの人に聞くこともあります。

固有名詞やスラングについては、最近はインターネットがあるから本当に助かっていますね。芸能人の名前とか、歯磨き粉の銘柄とか……。昔は大使館なんかにわざわざ出向いて、調べることもありましたから」

▲訳文ができた後、必ず一度原書を声に出して読む。「ここは韻を踏んでるんだと気付いたり、リズムを確認したり。訳し落としていた言葉に気づくこともあります」

岸本さん:
「単語レベルでは分かるという場合は、フレーズごと調べることもあります。文学作品や歌詞からフレーズを引用したり、パロディにしている場合もあるので。

大事なのは、ここは何かの引用かもしれないと気づくこと。それさえ気づけば、すぐに調べられますから。

長年この仕事をしていると、前よりそうしたことに勘がはたらくようになっている気がします。ほかにもこのフレーズはこう訳したほうがいい、といったノウハウが増えていく。若い頃のようなアクロバティックな訳はもうできないかもしれないけど、そのぶん経験値が上がっていくんです。

翻訳は技術なので “やればやるほど進歩していく” という面はあると思いますね」

 

エッセイを書くのは、海外小説に興味を持ってもらいたいから

名エッセイストとしても知られる岸本さん。切れ味のいい文章で、時には大笑いさせてくれ、時には不思議な世界へと連れていってくれるエッセイが多くの人から愛されています。

岸本さん:
「初めてエッセイを書いたのは、翻訳学習者向けの雑誌。中高時代に仲の良かった友達がたまたま編集部にいて、頼まれて仕方なく書いたんです。

すごく真面目な雑誌なのに、中高時代のノリでくだらないことを書いてしまい、掲載されてから『しまった……』となりました。

でも編集部には面白がってもらえたようで、その雑誌で連載することになったんですね。それならばと、『夜寝る時に頭の中でしりとり合戦が止まらない』みたいな、翻訳とは全然関係のない話を、懲りずに書くことにしたんです。

3回くらいそういうことを続けたんですが、特に何も言われないので弱気になってきて。そろそろ真面目に書こうかなと思った矢先、ある読者から編集部にクレームの電話が来たと聞いたんです。『あのページだけ翻訳の役に全く立たない!』と。それを聞いた時に腹が決まりました。『一生くだらないことだけ書くぞ』って(笑)」

▲筒井康隆『バブリング創世記』(徳間書店)。「筒井康隆さんはすごく影響を受けた作家の1人。小説としての面白さや文章はもちろん、ルールから自由なところが好きです」

▲武田百合子『遊覧日記』(ちくま文庫)も大好きな作品。「何ということはない場所へ行って、見てきたことをそのまま書いているのですが、世界を見る目とそれを言語化する力がすごい。永遠の憧れです」

岸本さん:
「翻訳物って敷居が高いと思われてしまって、手に取らない人も多いんですよね。

だから私の翻訳した小説は読まないけれど、エッセイは読むっていう人って、意外とたくさんいるんです。

その中から『こんなくだらないことを書いてるやつが翻訳したものなら、読んでみようかな』って思ってくれる人が、たまには出てくるかもしれない。そういう下心からエッセイを書いています」

 

文化や習慣は違っても、基本の喜怒哀楽は同じ

岸本さん:
「翻訳物に苦手意識がある人は、まずはいろいろな作家の作品が入っているアンソロジーを読んでみるのはどうでしょう。その中に1つでも気に入った作品があったらその作家のものを読んでみるといいかもしれません。

もしくは気に入った翻訳者がいたら、その人が訳している別のものを読んでみてもいいし。そうやって少しずつ広がっていくといいですよね。

あと、最初は韓国の小説から入ってみるのはどうでしょう。最近はたくさんいい翻訳が出ていますし。やっぱり同じアジア人ということで、体温みたいなものが近い感じがするんです」

岸本さん:
「翻訳の仕事をしていると、 “どれだけ自分たちと違うか” よりも、 “どれだけ同じか” を実感することの方が多いです。

文化とか習慣の違いはあるけれど、失恋すれば悲しいとか、基本の喜怒哀楽は同じなんです。

いろんな違いがある中で、同じだと思えることが翻訳物の面白さなのかなって。今まで食わず嫌いでいた人も、いろいろな作品を手に取ってみてほしいです」

「翻訳するってこういうことなんだ!」とワクワクしっぱなしだった岸本佐知子さんのインタビュー。1冊の翻訳物の向こう側に、原作にとことん向き合うプロフェッショナルの姿が見えてきて、海外作品をもっと読んでみたい!という気持ちにもなりました。

一方で、自分と重ねて考えたくなるお話も。インタビューからしばらく経った今でも、「最後の最後までジタバタして、できることは全部やる」という岸本さんの言葉が、仕事や日常のあれこれに向き合う時に頭に浮かびます。

半歩先の世界は少し遠くて、でも自分にも確かにつながっている世界。次はどんな世界に出合えるのか、楽しみです。

 

【写真】上原朋也


もくじ

 

岸本 佐知子(きしもと・さちこ)

翻訳家。訳書にルシア・ベルリン『掃除婦のための手引書』『すべての月、すべての年』『楽園の夕べ』、リディア・デイヴィス『話の終わり』『ほとんど記憶のない女』、ミランダ・ジュライ『いちばんここに似合う人』『最初の悪い男』、ショーン・タン『内なる町から来た話』『セミ』、ジョージ・ソーンダーズ『短くて恐ろしいフィルの時代』、ジャネット・ウィンターソン『灯台守の話』など多数。編訳書に『変愛小説集』『居心地の悪い部屋』ほか、著書に『わからない』『死ぬまでに行きたい海』ほか。2007年『ねにもつタイプ』で第23回講談社エッセイ賞を受賞。

 


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