【半歩先の世界】第1話:授業の後、泣きながら帰った日も。恩師に一から教えられた日々のこと(翻訳家・岸本佐知子さん)

ライター 嶌陽子

知らない世界や職業についての話を、じっくり聞いてみませんか?

料理のレシピや収納のノウハウのように、明日からの生活にすぐに役立つわけではないかもしれません。けれど普段の暮らしの「半歩先の世界」に目を向ければ、そこにはワクワクするような発見が待っているはず。

自分自身のこれまでを振り返ったり、未来の可能性に胸をふくらませるきっかけにもなりそうです。

今回お話を伺うのは、翻訳家の岸本佐知子(きしもと さちこ)さん。エッセイにも愛読者が多く、「岸本さんのエッセイから翻訳作品を読むようになった」と話すスタッフもいるほどです。

翻訳の楽しさや難しさはどこにあるのか、どのように作品に向き合っているのか、仕事で大事なことは何か……。たっぷりお話を聞きました。全3話でお届けします。

 

叱られてばかりの会社員生活。居場所を求めて翻訳学校へ

▲これまでに手がけてきた訳書、編訳書は50冊以上。

30年以上、翻訳の世界の第一線で活躍している岸本さん。まずは今の仕事をするようになったいきさつから聞きました。

岸本さん:
「学生時代は英文科だったんですが、翻訳家を目指していたからというわけでは全然ないんです。英語の点が一番マシだったからで、特に好きな英語圏の作家がいたわけでもありませんでした。

好きな本は何度も繰り返し読むような子どもでしたが、いろいろと読むようになったのは社会人になってから。通勤電車の中で谷崎潤一郎なんかを読んで、すごい作家がいるなと思ったりしてましたね」

▲子どもの頃に何度も繰り返して読んでいた岩波文庫の『にんじん』(J.ルナアル作、岸田国士訳)

▲「100年以上前のフランスの風物が全然分からない、その分からない感じが魅惑的でした。翻訳も素晴らしいんです」

大学卒業後は、一般企業に就職したものの「これが全く自分に向いてなかった!」と話します。

岸本さん:
「期日は守れないし、金額は間違えるし、組織内の上下関係なんかもよく分からないから、もう本当にダメで……。叱られるために会社に行っているようなものでした。

周りの人は面白くて優しい人ばっかりで、職場自体は楽しかったんですが、半年も経たないうちに、自分はここにいちゃいけない人間だなって思いました」

岸本さん:
「このままだとしんどいなと思った時に、もうひとつ居場所があればいいんだと考えたんです。それで、会社帰りに学校に通って何かを学ぼうと思いつきました。

最初に頭に浮かんだのが絵。子どもの頃は絵が好きだったし、興味があったので。

もうひとつが翻訳でした。中学時代、夏休みに絵本を1冊訳すという宿題が出たんです。すごく楽しかったし、先生にも褒めてもらえた。褒められた体験って後にも先にもそれくらいしかなかったので(笑)、記憶に残っていたんですね」

岸本さん:
「もう一つ、翻訳に関しては強い記憶があって。大学時代にリチャード・ブローティガンという作家の作品をたまたま読んだんですが、あまりにも素晴らしくてびっくりしたんです。

卒論のテーマにしたんですが、自分でも訳してみたりするうちに、ブローティガンもすごいけど、『ひょっとしてこれは翻訳がすごいんじゃないか』って気がつきました。藤本和子さんの翻訳に衝撃を受けたんですよね。

その時は翻訳家になりたいと思っていなかったけれど、『翻訳ってすごいものだな』って、初めて意識したのはこの時です。

会社帰りに学ぶとしたら絵か翻訳。どっちにしようかと考えた時に、絵はいろいろな道具が必要だけれど、翻訳は辞書が1冊あればできるなと。それで翻訳の学校に通い始めたんです」

 

たまたま入ったクラスの先生がものすごく厳しくて……

岸本さん:
「会社帰りに通える翻訳学校の、文学作品を翻訳するコースを選んで週に一度通い始めたんですが、この時もまだ翻訳家になろうなんて全然考えていませんでした。

ところが、たまたまものすごくスパルタのクラスに入ってしまったんです。

中田耕治先生という方のクラスを取ったんですが、この先生がめちゃくちゃ厳しくて。最初の日はあまりにも怖くて、子どもみたいにしくしく泣きながら帰ったのを覚えています」

岸本さん:
「先生は生徒が前もって訳してきた文を読み上げながら授業をするんですが、最初の日、私が訳したものは読まれなかったんですよ。『横書きなんてありえない』って皆の前で言われてしまって。

そうか……と思って、翌週は縦書きで書いたけど、筆記具が適切じゃないという理由でまた読んでもらえなかった。3回目でやっと読んでもらえた!と思ったら、『30点』って言われてしまいました。

英語は前から好きだったし、いい線行くんじゃないかと思っていたのが、箸にも棒にも掛からなくて本当にショックでした」

 

授業をこっそり録音して、必死に勉強した

岸本さん:
「でも、そこから本気で勉強するようになったんです。ここで諦めたら本当に居場所がなくなるなと思って。人生で初めて予習復習をしたくらい。

授業の内容を聞き取ってノートに書くんですが、耳が追いつかないのでこっそり録音して、家に帰ってもう一度聞いてノートに書き写していました。

先生の訳や、クラスでも上手な人の訳を聞くと、『同じ文章を訳しているのになんでこんなに違うんだろう』って衝撃を受けました。

それでも、続けているうちに少しずつ上手くなっていったんでしょうね。結局3年間くらい通ったのですが、最後の方は先生の翻訳の仕事を手伝うチームにも入ることができました」

 

文字になっていないことも行間から読み取る

岸本さん:
「先生に学ぶようになって、それまで自分が翻訳だと思っていたものは、翻訳じゃなかったんだなということが分かりました。『翻訳=横書きを縦書きにすること』だと思っていたんです。

でも、翻訳って文字じゃないんですよね。小説というのは、実際には文字を読んだ時に頭の中に浮かぶイメージの連続体なんです。だから、訳す際も原文を読んで、まずイメージしてから日本語に落とし込まないといけない」

岸本さん:
「 “イメージ” というのが、中田先生に一番叩き込まれたことです。

先生がおっしゃるには、原文に “犬” と書いてあるだけでも、その犬の大きさや犬種、毛の色などは全部作者の頭の中にある。そこも含めて行間から読み取らなければならない、と。

衝撃的だったのが、ある短編小説を授業で訳していた時に、部屋で寝ていた男性がうなされて目覚めるというシーンで、先生が生徒の1人に『この部屋の広さはどれくらいだと思う?』と聞いたことです。

ほかにも部屋は明るいか暗いか、この男性の妻は何歳くらいで生きてると思うか、とか。テキストにそんなことは書いてないんですが、でもそこまでイメージしたうえで訳すということなんですよね。とにかく自分の中でイメージが統一されていないと、そのブレが訳文の言葉の端々に出てしまうんです」

 

今でも時々、先生の言葉を読み返します

岸本さん:
「授業中、中田先生が、時々いつもと違う声でご神託みたいなことをおっしゃるんですよ。

『小説の魅力はオープニングに詰まっている』とか『登場人物は全員が魅力的である』とか。それを書き留めたノートは今でも手の届く場所に置いて、時々読み返しています。

翻訳に関することは一から十まで中田先生に叩き込まれました。怖かったけれど、生徒思いのいい先生でしたね」

その後、岸本さんは、会社での出会いを通じて、1冊の作品を翻訳することに。その本をきっかけに退職し、翻訳家としての道を歩み始めます。

第2話では、岸本さんが実際にどのように翻訳をしているのか、その醍醐味や苦労などについて伺います。

 

【写真】上原朋也


もくじ

 

岸本 佐知子(きしもと・さちこ)

翻訳家。訳書にルシア・ベルリン『掃除婦のための手引書』『すべての月、すべての年』『楽園の夕べ』、リディア・デイヴィス『話の終わり』『ほとんど記憶のない女』、ミランダ・ジュライ『いちばんここに似合う人』『最初の悪い男』、ショーン・タン『内なる町から来た話』『セミ』、ジョージ・ソーンダーズ『短くて恐ろしいフィルの時代』、ジャネット・ウィンターソン『灯台守の話』など多数。編訳書に『変愛小説集』『居心地の悪い部屋』ほか、著書に『わからない』『死ぬまでに行きたい海』ほか。2007年『ねにもつタイプ』で第23回講談社エッセイ賞を受賞。

 


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