【半歩先の世界】第2話:最後の最後までジタバタして、できることは全部やる(翻訳家・岸本佐知子さん)
知らなかった世界や職業についての話をじっくり聞いてみる特集「半歩先の世界」。今回は、翻訳家の岸本佐知子(きしもと さちこ)さんにお話を伺っています。
第1話では、会社員から翻訳家へと転身した経緯について話してくれた岸本さん。続く第2話では、実際にどのように翻訳作業をしているのか、翻訳するうえで大事にしていること、そしてこの仕事の楽しさなどについて聞きました。
作業中に一番使うのは「聴力」です
岸本さんが見せてくれたのは、翻訳した作品の原書。開くと鉛筆でびっしりと書き込みがされていて、所々に色鉛筆で印もつけられています。
岸本さん:
「私の場合、まずは原書を読みながら、思い浮かんだ訳語やフレーズをメモのように直接書き込んでいきます。
色鉛筆で線を引いたところは、色によって意味が違っていて、緑は “もうちょっと考えたい” 、ピンクは “調べ物が必要” といった具合に使い分けています。
必ず一度は手で書くプロセスがないとダメなんです。それを元に、頭の中で整理しながらワープロに打ち込んでいきます」
▲15年ほど使い続けている電子辞書。「使い慣れているし、好きな英英辞典が入っているんです」。訳文はワープロで打ち込む。その横には調べもの用のタブレットを置いているそう
岸本さん:
「原書を読んでいると、何となく聞こえてくる作家の声みたいなものがあるんですよ。
原書に鉛筆で書いている時も、聞こえてくる声を書き留めているという感覚もあって。だから、私が翻訳する時に一番使うのは聴力なんです。
仕事中は静かじゃないと私はダメですね。音楽などがかかっていると声が聞こえないので」
岸本さん:
「翻訳においては、作家の声=ヴォイスを訳すことが大事。もちろん訳が間違っていないのに越したことはないんですが、どんなに正確な訳をしていても、声が間違っていたらもうそれは誤訳に近いと思います。
声とは何かと聞かれると、言い表すのは難しいんですが……。でも、日本語の作家にだってそれぞれの声がある思いませんか? 村上春樹には村上春樹の、川上未映子には川上未映子の声がある。
文章から滲み出てくる、その作家のエッセンスみたいなものでしょうか。どんなに面白いと思った作品でも、声があまりうまく聞こえない場合は、自分が訳さない方がいいのかなと思っています」
この本に「めり込みたい」から翻訳する
翻訳中に一番使うのが「聴力」と聞いてびっくりしました。「声が聞こえる」とは、その作品と岸本さんの思考や感覚にどこか重なる部分があるということなのでしょうか。翻訳する作品は、いつもどうやって決めているのでしょう。
岸本さん:
「翻訳家になって最初の頃は、出版社から打診を受けた作品を読んで、気に入ったものを訳していました。でも途中から、自分で訳したいと思う作品を出版社に持ち込むようになったんです。
初めて自分から訳したいと思ったのは、リディア・デイヴィスという作家の『ほとんど記憶のない女』。たまたまネット書店で買って読んでみたら1行目から大好きになって、訳したい!って思いました」
▲アメリカの作家、リディア・デイヴィスの作品。「初めて彼女の作品を読んだ時は衝撃を受けました」
岸本さん:
「私は “めり込みたい” って言っているんですが、本当に好きになるともっと深く読みたくなるんですよね。
読んでいて、ふつうに面白いなと思う程度だったら、訳すまでには至らないです。もっと読もうとなると、最終的には訳すしかない、となる。本当にもう “合体したい” というか、 “めり込みたい” っていう感じなんです。
それくらい深く読みたいんですよ。そういう意味で、翻訳は一番ディープな “読み” なんだと思います」
▲岸本さんが訳したルシア・ベルリンの本。「表紙の写真に映っている女性は、実は著者のルシア本人なんです」
岸本さん:
「ここ数年で、ものすごく心をつかまれたのがアメリカの女性作家、ルシア・ベルリンです。初めて作品を読んだ時、1行目からこの人の声は強い!と衝撃を受けて、絶対に翻訳したいと思いました。
表紙もデザイナーのクラフト・エヴィング商會さんとじっくり話し合って決めました。出版されるまでは、日本でこの本のことを一番知っているのはおそらく自分にちがいないので、責任を持ちたいんです。
せっかくいい作品でも、表紙がよくないと手に取ってもらえないでしょう? なにしろ私自身、本を買うときは表紙で決めるジャケ買い野郎なので(笑)」
翻訳の楽しさとは「空っぽになること」
翻訳を通じてこれまでに数々の素晴らしい海外作品を日本の読者に紹介してきた岸本さん。翻訳する際は「この作品を知ってほしい」という気持ちが大きいのでしょうか。
岸本さん:
「自分が翻訳したものが面白がられて、たくさんの人が読んでくれればもちろんうれしいです。でも、私の場合はまず自分が楽しいから訳したいという気持ちが大きいですね。
翻訳の楽しさって、私にとっては空っぽになる楽しさです。小説を書くのは自分の中身を出すような作業だけれど、私の考える翻訳とは、空っぽの自分に何かが入ってきて、それが出ていくこと。
イメージとしてはラジオです。ラジオってそれ自体にはメッセージはないけれど、アンテナで電波を受信して、それをお腹のスピーカーから出す。それと同じですね。入ってきて出す、その空っぽの感じがすごく気持ちいいんです」
岸本さん:
「とはいえ、やっぱり人間だから、訳すものにその人の体臭みたいなものはどうしても出てしまうとは思います。ただ、それを意図的に出しちゃうのはアウトだと思うんです。
私も時々、すごくかっこいい日本語を思いつくことがあります。こんな言葉を知ってる自分ってすごい!みたいな。それで訳文に置いてみるけど、翌朝見てみるとやっぱりそこだけ浮いてるんです。自己顕示欲はこの仕事の敵ですね」
とにかく最後の最後まで、自分にできることは全部やる
岸本さん:
「理想の翻訳とは、原作の言語を母語とする読者が、原作を読んだ時に受け取るのと同じ質と量の感動を、日本の読者に伝えられること。
ただ、それはあくまで理想であって、翻訳に完璧を求めるのは無理なんですよ。言語も文化も違うわけだから、100%は再現できない。翻訳家の間では “負け戦”っていう言い方をよくするんです。しょせんは負け戦だけど、その中でもなるべく全力を尽くして、 “いい負け戦” にしていくしかない」
岸本さん:
「この仕事をしていて、いい訳ができた!って思うことってあまりないです。逆にもっとよくできたんじゃないかって思うことはありますけど。
ただ、とにかく最後の最後まで、自分にできることは全部やる。
どうすればベストになるかというのは分からないし、たぶんこれがベストではないんだろうなと思いつつ、とにかく最後までジタバタするしかないんですよね。だから私の場合、校了ぎりぎりまで何度も修正をします。往生際が悪いというか……」
岸本さん:
「翻訳家って、サバサバしていて『まあいっか』みたいな人より、すごくしつこくて執念深い人の方が向いている気がします。1つの単語を訳すのにこれがいいかな、あれがいいかなってずっとねちっこく考え続けて、夜寝る前に『あ!』と思いつくような」
想像以上だった翻訳という仕事の奥深さと面白さ。私たちが無意識のうちに作品から受け取っている作家の「声」が、こんなふうに翻訳家の体を通って届けられているんだと知って、海外小説を読む楽しみがさらに広がった気がしました。
最終回の第3話では、岸本さんの技術の高め方やエッセイを書く理由、そして海外小説の楽しみ方についても教えてもらいます。
【写真】上原朋也
もくじ
岸本 佐知子(きしもと・さちこ)
翻訳家。訳書にルシア・ベルリン『掃除婦のための手引書』『すべての月、すべての年』『楽園の夕べ』、リディア・デイヴィス『話の終わり』『ほとんど記憶のない女』、ミランダ・ジュライ『いちばんここに似合う人』『最初の悪い男』、ショーン・タン『内なる町から来た話』『セミ』、ジョージ・ソーンダーズ『短くて恐ろしいフィルの時代』、ジャネット・ウィンターソン『灯台守の話』など多数。編訳書に『変愛小説集』『居心地の悪い部屋』ほか、著書に『わからない』『死ぬまでに行きたい海』ほか。2007年『ねにもつタイプ』で第23回講談社エッセイ賞を受賞。
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