【57577の宝箱】切った分だけ少し時が戻るみたい 短くなった髪の毛揺れる
文筆家 土門蘭
月に一度、髪を切ってもらっている。
「伸びてきたら切る」のではなく、「月に一度切る」と決めているのだ。
何かの本で、「髪は伸びてきても自分ではわからないものだから、定期的に切れば清潔感を確実に保てる」と書かれているのを若い頃に読んだ。確かにそうだな、と思い、それからずっと月1で散髪に行っている。
もちろんカット代もかかるし、その割には切っても誰にも気づかれないくらいの変化しかないのだけど、気分が全然違う。「自分はちゃんと身だしなみを整えている」と思うと安心する。それに、常に目に入る自分自身の一部を定期的にケアすることは、とても気分がいい。長年続いている習慣のひとつだ。
§
ところが今月、いつも行っている美容室の予約が取れないことがわかった。私の都合と、お店のスケジュールの空きが合わない。
「それなら来月」とすればいいのだが、もはや「月に一度髪を切ってもらう」は私が気持ちよく過ごすためのジンクスみたいになっているので、かなり慌てた。美容師さんもなんとか時間を見つけようとしてくれたのだが、どうしても合わず、次に都合のつく日はずいぶん先になる。
「他のところに行ってみようか」
それで、そんなことを考えた。私にとっては思い切ったことだ。
通いの美容室は家から少し離れたところにあるのだけど、10年近くお世話になっているところなので、長い間他のお店には行ったことがない。できたら今回も彼に切ってほしかったが、今月くらいは他の美容室に頼ってみてもいいのかも……。
その時、すぐ近所にある美容室のことが頭に浮かんだ。自転車でよく前を通り過ぎる、壁一面が窓の気持ちよさそうなお店だ。名前すらうろ覚えだったのだけど、Google マップで検索してウェブサイトを見たら写真が綺麗だったので、勢いでそのまま予約をした。
行ったことのない美容室に行くなんて、引っ越しをしたとき以来だ。これまでも引っ越しをするたびに、すぐに自分に合いそうな美容室を探した。この街で、月一で自分を整えてくれるところ。
新しく行く美容室はどんなところだろう。ドキドキしながら、自転車で向かう。
§
お店の前に自転車を停めると、男の人が出迎えてくれた。ずっと外から眺めるだけで、ここに入るとは思いもしなかったけれど、日当たりよく緑も多い素敵な店内だった。美容室ってカフェや本屋さんとは違って、なかなか気軽に入るところではないもんな、と思う。
「お近くにお住まいなんですか?」
と聞かれて「はい」と答える。お店は彼一人でやっているらしく、小さな空間でもあるので常に貸切でやっていらっしゃるらしい。だから私以外にお客さんはいなくて、静かで穏やかな雰囲気だった。
そのまますぐ、シャンプーをしてもらう。慣れていない洗髪台で仰向けになるのは緊張したが、すごくシャンプーが上手な方だったので少し安心した。シャンプーが上手な人は、カットもうまい気がする。洗髪が終わるとだいぶ心も開いていて、椅子に座って髪を切られながらいろんな話をした。
彼は5年ほど前にここでお店をオープンさせたらしい。私もちょうど同時期にこの近所に引っ越してきたので、「同級生みたいなものですね」と笑う。この街に来て、同じくらいの時間を暮らしてきた私たち。
だから気になるお店や好きなお店もだいぶかぶっていた。カフェ、本屋さん、パン屋さん、花屋さん。パン屋さんについては私の方が少し詳しく、花屋さんについては彼の方が少し詳しい。「新しくできたパン屋さんは食パンが美味しいですよ」とか「あそこの花屋さんはグリーンが多くて、この店のもよくそこで買ってるんですよ」とか、二人でいろいろ教え合った。
「ここはいい所ですよね」
「いい所です。静かだし、川も近いし、素敵なお店も多いし」
話しながら、この街に引っ越してきたばかりのことを思い出した。静かで、川が近くて、素敵なお店がいっぱいある。そんなところに惚れ込んで、私はこの街にやってきたのだ。
初めて来た美容院で髪を切られていたからだろうか。まるで、自分がここに引っ越してきたばかりみたいに錯覚した。その新しい目で窓の外を見てみると、いつも自転車で通り過ぎる通路が新鮮に見えた。
§
「これからどうするんですか?」
髪を切り終わってケープを取り外すとき、彼にそう尋ねられた。時計を見ると、保育園のお迎えの時間まであと1時間ある。
「ちょっとコーヒーでも飲んで帰ろうかな、と」
そう言うと、彼は「いいですね」と言った。そしていくつかカフェの名前を挙げる。
「ここら辺は、いいカフェがいっぱいありますから」
鏡に映る私の髪型は、やっぱりそんなに変わっていないけれど、きちんと整えられてスッキリしている。自転車に跨って「教えてもらった花屋さんも、のぞいてみます」と言うと、「ぜひ」と外まで送ってくれた彼がにっこりした。
手を振って、ペダルを踏む。
シャンプーのいい香りを嗅ぎながら、住み慣れた新しい街を走る。
“ 切った分だけ少し時が戻るみたい短くなった髪の毛揺れる ”
1985年広島生まれ。小説家。京都在住。小説、短歌、エッセイなどの文芸作品や、インタビュー記事を執筆する。著書に歌画集『100年後あなたもわたしもいない日に』、インタビュー集『経営者の孤独。』、小説『戦争と五人の女』がある。
1981年神奈川県生まれ。東京造形大学卒。千葉県在住。35歳の時、グラフィックデザイナーから写真家へ転身。日常や旅先で写真撮影をする傍ら、雑誌や広告などの撮影を行う。
私たちの日々には、どんな言葉が溢れているでしょう。美しい景色をそっとカメラにおさめるように。ハッとする言葉を手帳に書き留めるように。この連載で「大切な言葉」に出会えたら、それをスマホのスクリーンショットに残してみませんか。
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