【57577の宝箱】特別なことなどないけど思い出す うすくて冷たいカルピスの午後

文筆家 土門蘭


幼い頃の夏休みの思い出が、あまりない。

両親ともに仕事で忙しく、出かけることがあまりなかった。祖父母は私が物心つくまえに亡くなっていたし、気軽に遊びに行けるような親戚の家もない。一人っ子で鍵っ子で、とにかく退屈だったのを覚えている。みんながお出かけで忙しそうな中、私は家で本を読むか、テレビを見るか、宿題をするか。早く夏休みが終わればいいのにな、といつも思っていた。

だけど、小学4,5年の時だったろうか。もう少しで夏休みが終わるという、8月29日だったのは覚えている。ふと「もうすぐ休みが終わるのだから、思い切り遊んじゃおう」と思いついた。

それで、いろんな友達を遊びに誘ってみた。どうせみんな予定があって断られるだろうと思い込んであまり誘わなくなっていたのだけど、いざ誘ってみると何人かがOKしてくれた。そのうちの一人が「学校のプールに行かない?」と提案し、みんなで泳ぎに行くことになった。

私は泳げなかったので水泳の授業が好きではなく、だから開放プールに来たのもこの時が初めてだったのだけど、友達と水に浸かるだけで楽しかった。監視員が笛を鳴らし、その度にみんなで水の外に出て休憩をする。日光に温められた地面に座って、友達とおしゃべりをした。キラキラと輝く水面が、とても綺麗だと思った。

この日のことだけは、すごくよく覚えている。そのとき私は、
「夏休みって、もっと自由に遊んでもよかったんだ」
と大きな発見をした気持ちになった。

どこにも連れて行ってもらえない、誰も遊んでくれないと思い込んで、新学期が来るのを大人しく待っていたけれど、本当はどんどん自分で出かければよかったのかもしれない。遊びたい友達を誘って、行きたい場所へ行けばよかったのかもしれない。

私はその翌日も、翌々日も、友達と遊んだ。最後の三日間になって初めて、夏休みがどういうものが理解できたような気がした。嬉しさと同時に、後悔のようなものも感じた。どうして私は、もっと夏休みを謳歌しなかったんだろう?

「人生が終わる三日前にも同じように感じるのかもしれない」
プールの水面を眺めながら、そんなことを思ったのを覚えている。どうして私は、もっと人生を謳歌しなかったんだろう? いつかそう思うのかもしれないなと。

それが私の、最も鮮明に覚えている夏休みの記憶だ。

§

小学4年生の長男が夏休みに入った。
今度は私が「どこかに連れて行って」と言われる側になった。仕事で忙しく、どこにも連れていけないのもかつての親と同じだ。学童に通う長男を見ていると、少し心苦しくなる。

「人生が終わる三日前にも同じように感じるのかもしれない」
という考え方は、あの時から癖のように染み付いてしまって、こういうときにも現れる。「子供が自立する三日前にも、『どうしてもっと子育てを謳歌しなかったんだろう?』と後悔するのではないか」……そんなふうに後悔している未来を想像して、今を苦しんでしまう。その度、早くどこかへ連れて行ってあげなくちゃ、と焦燥感に駆られるのだ。駆られたとて、仕事が終わるわけではないのだけど。

先週は、長男の塾で5日間の夏期講習があった。その間は午前中に学童へ行き、午後からは塾へ行くというスケジュールだ。塾へ行く前に、一旦うちに帰ってきて一緒に昼ごはんを食べる。
私は自宅で仕事をしているので、彼が帰ってくるのに合わせて昼ごはんの支度を簡単にしておく。そうめんとか、そぼろ丼とか、パン屋さんで買ったサンドイッチとか。
それらを一緒に食べながらテレビニュースを見る、というのが自然と定番になった。普段は食事中のテレビは禁止しているので、長男は喜んだ。私一人のときにはいつもそうしているなんて言えない。

ニュースを見ながら、ぽつぽつと話す。「金メダルすごいね」とか「気温やばいね」とか「円高ドル安って何?」とか。いつもは4歳の次男がいてゆっくり話せないので、質問にもできる限り答えてあげる。長男はわかったのかわからないのか、でも満足そうに聞いている。「ねえねえ、カルピス飲んでもいい?」と言われ「いいよー」と返す。私もカルピスを作ってもらったり、もらわなかったり。そんなふうに、昼ごはんの時間が続いた。

もうすぐ夏期講習が終わる日、お昼を食べ終わった長男が、
「僕、この時間好きやな」
と言った。「お母さんとゆっくりテレビ観たり、話したりできるもん」と。

それから元気よく「行ってきまーす!」と言って、自転車に乗って出て行った。
「行ってらっしゃい!」
お皿を洗いながら、私も大きな声で返す。

§

一人になった部屋の中で再び仕事に向かいながら、「この時間も彼の『夏休みの思い出』になるのかな」と思った。

特別でもなんでもない日常の数十分間だけど、長男は「この時間好きやな」と言ってくれた。それがなんだかとても嬉しかった。

もしかしたら、私のかつての夏休みにもそういう時間があったのではないだろうか、と思う。プールの水面のようにキラキラはしていないけれど、しみじみと心地よい時間が、「この時間好きだな」と思える瞬間があったのではないだろうか。そう思うと、昔の自分が少し慰められるようだった。そして、未来の自分までも。

私はこの人生を終える三日前に、どんなことを思うのだろう。

何度も繰り返し考えてきたことを、また考える。もっと人生を謳歌すればよかった、もっと自由に遊べばよかった、と思うのだろうか。

それとももしかしたら、こういう日のことを思い出すのかもしれない。子供と二人、テレビニュースを観ながらサンドイッチをかじった日のことを、「円高ドル安」について丁寧に教えてやった日のことを。

氷で薄まったカルピスを飲み干すと、いつかの夏休みに飲んだ懐かしい味がした。

 

“ 特別なことなどないけど思い出すうすくて冷たいカルピスの午後 ”

 

1985年広島生まれ。小説家。京都在住。小説、短歌、エッセイなどの文芸作品や、インタビュー記事を執筆する。著書に歌画集『100年後あなたもわたしもいない日に』、インタビュー集『経営者の孤独。』、小説『戦争と五人の女』がある。

 

1981年神奈川県生まれ。東京造形大学卒。千葉県在住。35歳の時、グラフィックデザイナーから写真家へ転身。日常や旅先で写真撮影をする傍ら、雑誌や広告などの撮影を行う。

 

私たちの日々には、どんな言葉が溢れているでしょう。美しい景色をそっとカメラにおさめるように。ハッとする言葉を手帳に書き留めるように。この連載で「大切な言葉」に出会えたら、それをスマホのスクリーンショットに残してみませんか。

 


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