【57577の宝箱】身体という器の中で 魂という液体が光って揺れる
文筆家 土門蘭
ずいぶん前に、仕事仲間と飲みに行った時のこと。
まずは、ビールを頼んで乾杯。その後はそれぞれ、思い思いにドリンクを注文した。
私は根っからのビール党なので、最初から最後までずっとビール。でも、その場にいたひとりの男性はそんな私とは真逆で、一杯一杯、違うものを頼んでいた。ワインとか、日本酒とか。
「いろんなお酒を飲むんですね」
隣に座っていた人が、彼に言う。確かにお酒って好みが出るから、同じようなものを飲む人が多い気がする。ビールならビール、ワインならワイン、焼酎なら焼酎、というように。
そうしたら彼は、
「僕、経験フェチなんです」
と言った。「いろんなことを経験してみたいんですよ」
だから、いつも外食をする時は、メニュー表の中からまだ食べたり飲んだりしたことのないものを積極的に選ぶようにしているらしい。
それを聞きながら「へえー」と思う。
「いろんなことを経験する」と聞くと、海外旅行とか転職とかドラマティックなことを想像してしまうけれど、こうしてメニューの中から味わったことのないものを試してみるというのもありなんだな、と。私はドリンクメニューすら見ようとしていなかったので、ちょっと反省した。
「日本酒頼みますけど、おちょこいる人います?」
と聞かれて、私は「はい」と手を挙げる。
日本酒って酔いが早く回るような気がして、いつもなら飲まないのだけど、彼のその発言を聞いて私も「経験」してみようと思ったのだ。
おちょこにほんの少しだけ日本酒を注いでもらう。
じんわりと甘い透明な液体が、喉の奥を熱くした。
§
「経験フェチ」という言葉は、それ以来ずっと私の中に残っている。
お酒といえばビール、カフェといえばコーヒー、ケーキといえばチーズケーキ、あんこは絶対こしあん派。
そんなふうに自分の中に「定番」ができていて、ずっと忠実にそればかり味わってきた私だけど、冒頭の飲み会以降「もう少し冒険してみようかな」という気になってきた。
例えばカフェで、コーヒーの替わりにカフェモカを頼んでみたり。ビールはビールでも、ちょっと変わったクラフトビールを飲んでみたり。
この間は行きつけのパン屋さんで、いつもならツナと卵のサンドイッチを買うところを、チキンカツサンドを買ってみた。揚げ物は重たいかなと思って敬遠していたのだけど、食べてみたらむしろヘルシーなムネ肉でとてもおいしい。
「チキンカツサンド、すごくおいしいですね」
と、次に行った時に言うと、
「ずっと前からあったのに、食べたことなかったんやね」
とレジのおばさまに言われた。ツナと卵のサンドイッチの隣に、これまた自分好みのものがあったなんて、数年間知らなかった。
もちろん良いことばかりじゃない。この間は、試しに買ったクラフトの黒ビールがあまりに苦くて飲むのに苦戦した。苦いだろうとは思っていたけれど、こんなに苦いビールがあるとは思わなかった。
「これも経験だ」とひとりごちる。それが何に役立つのかはわからないけれど。
ただ、「苦いビールを飲んだことがある」ということ自体が大事な気がした。
その時、ふとバスケットボール漫画『スラムダンク』のセリフを思い出した。
優勝常連校だったチームが負けた時に、監督が選手にかけた言葉だ。
「『負けたことがある』というのが いつか大きな財産になる」
§
昨年末、脚本に参加したドラマ『スーツケース・ジャーニー』※1が公開された。
作中では梨木香歩さんの小説『西の魔女が死んだ』の文章が引用されている。その中に、こんな文章がある。
「魂は身体をもつことによってしか物事を体験できないし、体験によってしか、魂は成長できないんですよ。ですから、この世に生を受けるっていうのは魂にとって願ってもないビッグチャンスというわけです。成長の機会が与えられたわけですから」
主人公の栞はこの言葉に背中を押されるように、新しい場所へと飛び込んでいく。私の大好きなシーンだ。
何かを「体験」「経験」しようとするとき、私はいつもそこに「良い」ものを求めていた。おいしいもの、綺麗なもの、気持ちいいこと、嬉しい、楽しいこと。だから、気に入りのものを見つけたらそればかり選んでいた。逆に言えば、「悪い」ものは排除したかったのだ。それはそうだ、苦しいことや悲しいことはできたら経験したくない。結果的にその気持ちが、私を臆病にもさせていたのだけど。
でも最近は、体験や経験に、良いも悪いもないのかもしれないなぁと思うようになった。あらゆる体験や経験が成長につながり、いつか財産になるのであれば、どんなことも無駄にならない。私の中にある「魂」が育つならば、それでいいのかもしれないな、と。
そう思うと、何にでもチャレンジできそうな気がしてくるのだ。まるで、ベッドから飛び起きた栞のように。メニューの中から未知の味を探し出す彼のように。
さあ、今日はどんなものを味わおう。酸いも甘いも、どんと来いだ。
“身体という器の中で魂という液体が光って揺れる”
§
※1:『スーツケース・ジャーニー』は、YouTubeの北欧、暮らしの道具店の公式チャンネルで無料公開中です。前後編ともに15分程度のショートストーリーとなっておりますので、ぜひお気軽にご覧ください。
1985年広島生まれ。小説家。京都在住。小説、短歌、エッセイなどの文芸作品や、インタビュー記事を執筆する。著書に歌画集『100年後あなたもわたしもいない日に』、インタビュー集『経営者の孤独。』、小説『戦争と五人の女』がある。
1981年神奈川県生まれ。東京造形大学卒。千葉県在住。35歳の時、グラフィックデザイナーから写真家へ転身。日常や旅先で写真撮影をする傍ら、雑誌や広告などの撮影を行う。
私たちの日々には、どんな言葉が溢れているでしょう。美しい景色をそっとカメラにおさめるように。ハッとする言葉を手帳に書き留めるように。この連載で「大切な言葉」に出会えたら、それをスマホのスクリーンショットに残してみませんか。
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