【読書日記|本から顔をあげると、夜が】第四回:本と現実の間の壁
穂村 弘
X月X日
荻窪駅前の文禄堂という書店に、『山を渡る』(空木哲生)が四巻まで並んでいるのを発見。探していた漫画なので、喜んでレジに運んだ。山登りはまったくの初心者という女性三人が、ちょっとした偶然から大学の山岳部に入る。そこで山の楽しさに目覚めてゆく、という物語だ。作中の台詞をばらばらに抜き出してみよう。
「登山者の「三種の神器」を手に入れろ!!」
「これは針葉樹のシラビソの木です 樹液から甘くてスーッとするいい香りが出てるんです」
「食事も山の技術のひとつ」
「朝から餅入りラーメンで炭水化物のお化けを作ります」
「私 思うんだ 食べ物って本来みんなおいしいんだよ いつもはそれを忘れてるだけ 山がそれを思い出させてくれるんだよ」
「ステーション・ビバーク(駅寝)」
「おしゃれな言葉でラッピングしてもこれは「路上泊」だべ」
「でも 実は私 こういう旅に憧れていたなあ アメリカ文学に出てくる主人公の男の子みたいに 旅をし地面で寝て冒険に高揚する 未だ何者でもない放浪する魂に」
「熱くて甘い紅茶だよ」
楽しそうだなあ。いろいろな道具を揃えて使い方を学び、肉体的なトレーニングを積む。高尾山のような入門向けの山から始めて、少しずつ知識と技術と体力を身につけて、高度な登山に挑んでゆく。風景、食べ物、植物、動物。そこは平地の日常では決して味わえない体験に充ちている。いいなあ。私も登ってみたくなる。
と、そこで我に返った。あるじゃん、登ったこと。それは今から四十年前のこと。北大入学とともに、私は体育会のワンダーフォーゲル部に入ったのだ。北海道の大自然と触れ合うことを夢見て。なんでも形から入ろうとする私は、質実剛健な先輩たちに内緒で高価な山靴やテントやダウンジャケットを買い揃えた。選ぶ基準は、もちろん恰好良さ重視である。
だが、現実は厳しかった。それまでの人生で、私は一度も運動部に入ったことがなく、アルバイトをしたこともなく、旅をしたこともなかった。そんな自分には、体力と根性が欠けていることすら知らなかったのである。
初めての登山は、自然と触れ合うどころか、がりがりと心身を削られる体験だった。とても無理。ついていけない。遅れてしまう。数メートル先で、みんなが立ち止まって私を待っている。はあはあ云いながらやっと追いつくと、また進み出す。ついていけない。その繰り返し。同期の仲間は山を楽しみながら、どんどん逞しくなってゆく。私は自分の弱さに絶望した。そのせいというわけではないが、やがて大学を中退した私は、買い込んだ山靴やテントを友だちに譲った。ダウンジャケットだけは街で着たけれど。
X月X日
『山を渡る』の続きを読む。苦い記憶を持つ私でさえ、その世界が楽しそうに思えたのは、細部のリアリティに加えて、初心者の視点からも登山が描かれているためだろう。例えば、新入部員の一人である文学少女は、入部前にこんなことを云っていた。
「山岳文学に興味がありまして……」(と『青春を山に賭けて』(植村直己)を見せながら(引用者註))
「植村直己さん私も大好き! 勧誘じゃないよ!」
「私は登るより読むほうですから……」
おお、「登るより読むほう」って、仲間じゃないか。現実の山に挫けた後も、私は登山の小説や漫画は読んでいた。『神々の山嶺』(夢枕獏)、『K』(作・遠崎史朗、画・谷口ジロー)、『岳人列伝』(村上もとか)、『ジャンキー・ジャンクション』(谷甲州)などなど、どれも面白かった。これらの作品には『山を渡る』とはまた違う、命懸けの高度な登山が描かれている。
凍傷は肉体の手や足の指先から始まる。(略)グジュツ族の荒療治はまずカレーのルーを刺激剤として心臓の動きを活発化させる。(略)そして仕上げは、生唐辛をくるんだタオルで叩く。
「KAILAS」(『K』所収)
そして頂上に立った時……至上の歓喜の一瞬に……わたしは心の中でいつもこう叫んでいた……時よ……止まってくれ!…と……
「北壁」(『岳人列伝』所収)
極限状態で試される体力と技術と魂。痺れるなあ。でも、実際に自分が試されるのは困る。と云いつつ、近年はまた私も年に一度か二度は近場の山に登っている。登山が趣味の父親に誘われるからだ。
父が八十歳になった時は、記念にと云われて一緒に富士山に登った。毎週のように山に登っている健脚の父は余裕だったけど、当時五十歳の私は体力的にぎりぎりを超えていた。頂上近くでバテて、とうとう自分の荷物を父に渡してしまった。五十歳が八十歳に。恥ずかしかったけど、絶望することはなかった。学生時代とは違って、自分の弱さを知っていたからだ。「大丈夫か。家に籠ってばかりいないで、おまえもちょっとは運動しないとな」と云いながら、父はなんだか嬉しそうだった。お父さんは山の本なんて読まないだろうなあ。
X月X日
登山の小説や漫画の他にも、好きな本のジャンルがある。将棋の棋士、ピアニスト、コンピュータのハッカーといった人々が自分自身と戦い、ライバルや敵と競い合いながら、成長する物語である。それらを読んだ時も、登山漫画の場合と同じような気持ちを誘われる。いいなあ。やってみたいなあ。
が、実は山登り同様に、いずれも大昔にもう試しているのである。将棋は弱かった。ピアノは教室に十年も通ってソナチネが弾けなかった。コンピュータはプログラマーとして就職したけど落ちこぼれて総務部に異動になった。いつも、どんなジャンルでも、現実の壁に跳ね返されてしまうのだ。当たり前だけど、現実は小説や漫画とは違う。「登るより読むほう」の自分は、永遠に本の中から出られない運命なのだろうか。って、なんか、恰好良いような云い方をしてしまった。
1962年北海道生まれ。歌人。1990年歌集『シンジケート』でデビュー。詩歌、評論、エッセイ、絵本、翻訳など幅広いジャンルで活躍中。著書に『本当はちがうんだ日記』『世界音痴』『君がいない夜のごはん』他。
1981年神奈川県生まれ。東京造形大学卒。千葉県在住。35歳の時、グラフィックデザイナーから写真家へ転身。日常や旅先で写真撮影をする傍ら、雑誌や広告などの撮影を行う。
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