【読書日記|本から顔をあげると、夜が】第十回:マカオのカジノを思い出した

穂村 弘

X月X日

 引越しのために本の整理をしていたら、『麻雀放浪記』(阿佐田哲也)がごろごろ出てきた。全四巻の文庫本が二セットで計八冊。何故ダブっているのかというと、或る時、どうしても読み返したくなって、でも、混沌とした書庫から見つけ出すことができず、持っていることを知りつつ買ってしまったのである。それだけの魔力のある小説だ。ぱらっと頁を開いたとたん、ぐんぐん引き込まれて、気づけば引越しの準備をすべて放り出していた。読み出したら止まらないのだ。
 この世でもっとも面白い小説が何かは知らないけど、『麻雀放浪記』は、その候補に入る傑作だと思う。麻雀のルールを知らなくても大丈夫。敗戦後という時代背景を知らなくても大丈夫。愛や友情を知らなくても大丈夫。これは「生きる」ということについての物語だから、読者である私たちも一人残らず当事者なのだ。『麻雀放浪記』の登場人物は全員アウトロー、でも、だからこそ「生きる」ことへの捨て身の本気さが輝いている。

 人々は、地面と同じように丸裸だった。食う物も着る物も、住む所もない。にもかかわらず、ぎらぎらと照りつける太陽の下を、誰彼なしに実によく出歩いた。
 盛り場の道はどこも混雑していた。ただ歩くだけなのだ。闇市もまだなかった。映画館も大部分は焼失していた。けれども人々は、命をとりとめて大道を闊歩できることにただ満足しているようであった。

『麻雀放浪記』

 

X月X日

 『麻雀放浪記』を読みながら、ギャンブル繋がりで、一度だけカジノに行ったことを思い出した。もう十年以上前になるだろうか、妻とマカオに旅行をした時のことだ。せっかく来たのだから、有名なカジノというところに行ってみよう、という話になった。そこは煌びやかな世界だった。さまざまなギャンブルに興じる人々がいて、ワゴンの飲み物は飲み放題だ。
 我々は場の雰囲気にすっかり飲まれてしまった。そのうえ、ゲームのルールがわからず、言葉も通じない。それでもなんとか参加できそうなスロットマシンに、おそるおそる近づいてみた。が、案の定というべきか、みるみる手持ちのチップが消えてしまった。妻の調子はどうかな、と思って見ると、顔色が真っ青だ。
 「どうしたの?」
 「損した」
 「いくら?」
 「5000円」
 「あらら」
 私は学生時代に麻雀やパチンコくらいはやったことがあった。負けてばっかりである。でも、妻はギャンブルというものにまったく免疫がなかったのだ。そんな彼女にとって、ほんの数分で5000円のお金が消えるというのは、非常なショックだったらしい。
 「もうやらない」
 「え、もう?」
 「うん」
 せっかく来たのに、と思ったけど、そう云える雰囲気ではない。妻は怒っていた。そして辺りを見回すと、飲み物の乗ったワゴンを指さした。
 「あれ、飲む」
 「え?」
 「5000円分、飲む」
 なんと、スロットマシンで損した分を無料の飲み物で取り返そうというのだ。その気迫につられて私も飲んだ。でも、二人がかりで挑んでも、マンゴージュースで5000円分は、ちょっと無理だった。
 手持ちの全財産どころか自宅や恋人や命まで賭ける『麻雀放浪記』の坊や哲やドサ健や出目徳は凄いなあ、と改めて思った。でも、ギャンブルで負けた分をジュースで取り返そうとするのも、違った意味で凄かったかな。

 

X月X日

 『白眼子』(山岸凉子)がどうしても読みたくなって、でも、引越しで荷造りをしてしまったので、本屋さんに買いに行った。不安になると、この本が読みたくなるのだ。山岸凉子の代表作といえば『日出処の天子』。漫画史に残る傑作である。『日出処の天子』の壮大さと華麗さに較べて、『白眼子』は中編ということもあるが地味な作品だ。
 でも、両者には幾つもの共通点がある。実在と思しき人物をモデルにしているところ。主人公が超常的な能力を持っているところ。そして、運命的な出逢いが描かれているところである。
 『日出処の天子』の天才性に憧れる日もあれば、『白眼子』の「生きる」ことへの真摯さに励まされる日もある。引越しや家族の病気で不安定な今の私には、『白眼子』が必要なのだ。

「わたしの所へ色々な人が
 災難をさけてくれとやって来た
 わたしとしては
 できるだけのことはしたが
 できるといってもせいぜい
 小さな災難を小さな幸運に
 変えるぐらいなものだけど
 だけど本当は災難を
 さけようさけようとしてはいけないんだ
 災難は来る時には来るんだよ
 その災難をどう受け止めるかが大事なんだ
 必要以上に幸運を望めば
 すみに追いやられた小さな災難は
 大きな形で戻ってくる」

『白眼子』

 或る意味では平凡な世界観かもしれない。私好みの考え方でもない。でも、不思議なことに山岸凉子の作品として表現されると、「必要以上に幸運」を望みたい自分も頷けるのである。山岸さんは天才も異常者も平凡な人間も描くことができる。「生きる」ことの真実に触れる才能があるのだろう。

「結局たった一人の
 姉の幸せをおまえに頼むなんて
 わたしは本当に役立たずだな」
「そんなことはありません
 だってわたしずっと見てきたもの
 みんな元気づけられていました
 小さな災難を小さな幸運に
 変えるなんて大変なことです
 立派なことです!」

『白眼子』

 本気の優しさに胸を打たれずにはいられない。死の床にある超能力者に、自らの不器量と無能と不運を嘆いたかつての少女が大きな勇気を与えている。この作品には、運命の前に限りなく無力な人間が、その荒波に翻弄されながらも、懸命に「良く」生きようとする姿が描かれている。

 

1962年北海道生まれ。歌人。1990年歌集『シンジケート』でデビュー。詩歌、評論、エッセイ、絵本、翻訳など幅広いジャンルで活躍中。著書に『本当はちがうんだ日記』『世界音痴』『君がいない夜のごはん』他。

 

1981年神奈川県生まれ。東京造形大学卒。千葉県在住。35歳の時、グラフィックデザイナーから写真家へ転身。日常や旅先で写真撮影をする傍ら、雑誌や広告などの撮影を行う。

 

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