【レシート、拝見】土曜、渋谷、11時。待ち合わせはドーナツショップで

ライター 藤沢あかり

 


舘山信子さんの
レシート、拝見


 

「月に2度、お願いしているんです。野に咲く花のようなイメージでとお伝えして、あとはおまかせです」

うかがったタイミングは、ちょうどその生け込みが終わった直後。窓からのたっぷりの光のなかで、あちこちに小さな春がほころんでいる。

落ち着いた白の塗り壁に、アート作品。書棚に並ぶ文芸書や写真集。ギャラリーのようなフェイシャルトリートメントのサロンで、店主・舘山信子(たてやま のぶこ)さんのレシートを拝見した。

3月下旬の、とある休日。所用を済ませるため先に家を出た舘山さんが、家族と待ち合わせたのは渋谷のドーナツショップ。ドーナツがふたつ、それにカフェラテとココア。そこからレシートは、話題のアニメーション映画、近くの串揚げ屋、旅行代理店、ケーキ屋……と続く。ちなみにケーキは2人で3個。夫婦揃ってお酒も甘いものも、というクチらしい。

「映画を見たあと、なにか食べて帰ろうと。でも早い時間だからなかなかお店が開いておらず、サクッと食べて飲めるところを探して入りました。そうしたら、なんだかいい気分で。ふと思い立ち、その足ですぐ近くの旅行会社に向かい、夫と一緒に、少し先のチケットを予約したんです」

ふと思い立って、旅のチケットを。そんな自由は、ずいぶん遠い過去に置いてきてしまったようにも思う。そもそも、明日の状況すら見えないこのご時世。チケットに記された未来の日付が、どんな社会になっているかは誰にもわからない。

「こんなこと、わたしも初めてです。今まで生きてきて、いつでも行けると思っていたのにまさかこんな世の中になるなんて思いもしませんでした。だからこそ、申し込んでおきたいと考えたんでしょうね」

レシートは、こうなりたいという未来が綴られている、というようなことをこの連載で書いたことがある。ひさしぶりに気持ちよくお金を使った先が旅行だったというそのレシートに、舘山さんの願いが見えるような気がした。

それにしても串あげにケーキ、朝にはドーナツも食べているのだから、なんとも楽しげな一日だ。

夫婦で毎日の晩酌も欠かさないという。勝手ながら、美容に携わる人というのは、もっとストイックに暮らしているのだと思っていた。この日はたまたま羽目をはずしたのですか? そう聞くつもりが、翌日は買い物ついでに食べたうなぎ、そのすぐ前にはとんかつ定食のレシートを見つけてしまった。

「食べることに我慢は、あんまりしないですね。そうでなくとも、ずーっと我慢してきたことがたくさんあって。だから、ちょっとだけ心をほどいてみたんです」

舘山さんがこの店を始めたのは、45歳のとき。長く身を置いた広告業界を44歳で離れ、心機一転、選んだのがフェイシャルの世界だった。

「フェイシャルサロンが好きで、あちこちよく行っていました。でも、どこも個室で薄暗いんです。落ち着くというのもあるのでしょうが、わたしは明るく開放的な場所が好き。それがないなら、空間から作ってしまおうと思いました。

それに、その年齢では未経験者は雇ってもらえません。やりたいなら自分で始めるしかなかったんです」

それでも最初の5年ほどは、どうしてこんなこと始めたんだろうと思いながらの毎日だったらしい。けれどしだいにお客さまに恵まれ、8年目を迎えようというとき。世の中はひっくり返ってしまった。

「去年は絶対に店をつぶしてはいけないという思いでやっていました。今も、コロナを理由にだけはしたくないです。だって悔しいじゃないですか」

我慢から心をほどき、たのしいことばかりに浸かっているのではない。今も常に、緊張感とは隣り合わせにある。

それでも、舘山さんの口からは楽しいことしかこぼれないし、ツヤツヤの肌と笑顔を見ていると、こちらまで元気になる。なにか、これだけはというこだわりを大切にしているのだろうか。

「わたしね、『こだわる』という言葉を使いたくないんです。こだわっていると、もったいない気がします。だから、いいなと思ったらすぐにそっちのほうへ流れちゃう。『絶対やらなくちゃ』という無理はやめたほうが、楽に生きられるように思います。

大切にしていることがあるとしたら、嘘はつかないということかな。ごまかしちゃうくらいはあるかもしれないけれど(笑)」

楽に生きる、と舘山さんは言ったけれど、楽なほうへ流されることとはきっと違う。心に嘘をつかず、楽しいほう、健やかな心になるほうへ向かうことが、いつも平坦な道とは限らない。

「ケーキも食べたいときに食べて、お酒も飲んで。健康だけは、気をつけながらね」

すっかり心をマッサージしてもらったような、清々しい気持ちで店を出た。ふと見上げると青空を背景に「美肌室ソラ」と書かれた鳥のマークが揺れている。
「空は、誰の上にもあるでしょう。見上げたら、いつでも思い出してもらえると思って」。それが店名の由来らしい。

空を見上げながら、「こだわらない」という言葉を反芻する。年齢、社会、誰かの目。制限していたのは自分自身かもしれないと気づき、わたしの心もほどけていくようだった。

 

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舘山信子

「美肌室ソラ」店主。広告代理店での勤務を経て、佐伯チズが校長を務める佐伯式美肌塾チャモロジースクール、プロフェッショナルコースの最終期生として卒業。読書好きとしても知られ、最近読んで感銘を受けた一冊は『人間の建設(新潮文庫)』。毎朝のストレッチに加えて、寝る前に夫と肩を並べての「リングフィットアドベンチャー」もよい気分転換に。

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ライター 藤沢あかり

編集者、ライター。大学卒業後、文房具や雑貨の商品企画を経て、雑貨・インテリア誌の編集者に。出産を機にフリーとなり、現在はインテリアや雑貨、子育てや食など暮らしまわりの記事やインタビューを中心に編集・執筆を手がける。

写真家 吉森慎之介

1992年 鹿児島県生まれ、熊本県育ち。都内スタジオ勤務を経て、2018年に独立し、広告、雑誌、カタログ等で活動中。2019 年に写真集「うまれたてのあさ」を刊行。

 


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