【金曜エッセイ】「この絵本、覚えてる?」
文筆家 大平一枝
第八十話:私と彼女の現在地
大学3年の娘がふいに「この絵本、覚えてる?」と、スマホの画面を差し出した。
私は記憶がなく、じーっと見つめる。読んだような読まないような……。
娘は、「こういう厚い紙で、こういう体裁で、ママがこう読んでくれた」と鮮明に覚えていた。
毎晩3〜5冊、絵本だけは息子と娘にずいぶん読んできた気がするが、読む側と受け取る側の記憶、心に刺さる作品はそれぞれ違うのだなあと興味深く思った。
世界的な賞をとったり、ロングセラーになるような絵本が子どもの印象に残るとも限らない。実際、娘から聞かれた作品は、出版社から毎月絵本が届く定期購読のなかの1冊で、とくに世間で注目されたものではなかった。
現在社会人の息子が高校生のとき、ある絵本について尋ねると、「これ、よく覚えているよ。そらまめくんが寝るふかふかのわたのベッドに憧れた」とすらすら答えた。
私は、ふかふかまで覚えていなかったので驚いた。
たくさん読み語りをしたからといって、とくだん子どもたちは読書好きにならなかった。国語ができるわけでもない。期待をしていた私は、ちょっとがっかりした。1日3冊×365日×8年だと単純計算で8760冊にもなるのにと。
4枚布団を並べて、帰宅の遅い夫は子どもたちの就寝にだいたい間に合わず、両脇に娘と息子がいてひとつの絵本を覗き込んだ。下の娘が保育園を卒業するまで続いたので合計8年。
読んだ私もおおかた忘れてしまった。月刊誌はまとめて保育園に寄贈し、持っていた絵本はダンボール7〜8箱にして実家に送った。あとは図書館の本である。
つまり、記憶の名残を伝えるものが身近にひとつもない。
娘はなにかの拍子に、昔好きだった絵本をウェブで見かけて懐かしく思い、私に問いかけたのだろう。
そこにモノはなくても、絵本を読んで笑ったり、泣いたり、安らいだ気持ちで眠りについたあの時間は、それぞれの心のなかに確かにあるのだとわかった。
読んで聞かせているつもりだったが、私もまたあの時間に育ててもらっていたのかもしれない。たくさんの喜びや癒やしをもらいながら、少しずつ親になっていった。
ひとつのページを六つの目で共有したあの時間は、私の財産だ。絶対に戻れないから懐かしく、だからこそたまらなくせつない。
「おばあちゃんちに送った絵本、送り返してもらおうか?」と娘にいうと、「うん、そうしよう! 今読んだからまた違う感じ方するかも」と目が輝いた。どうやら21歳の彼女は、子どもだった自分に会いたいらしい。
よし、コロナが収束したら実家の納戸へ探しに行こう。
文筆家 大平一枝
長野県生まれ。編集プロダクションを経て1995年独立。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』(誠文堂新光社)、『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)ほか。『東京の台所』(朝日新聞デジタル&w),『そこに定食屋があるかぎり。』(ケイクス)連載中。一男(24歳)一女(20歳)の母。
大平さんのHP「暮らしの柄」
https://kurashi-no-gara.com
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